Gishi hyojo no zu / Kuniyoshi
義士評定之圖 歌川国芳 年代不詳
"一ノ注進 早野勘平 ニノ注進 千崎弥五郎 三ノ注進 速水藤左衛門?"
実際の赤穂藩への急使の状況はwikiによると以下の通り。
元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)巳の刻(午前10時頃) 松之大廊下の刃傷
同日未の刻(午後2時頃) 浅野大学は書状を国家老・大石内蔵助にしたためて、早水藤左衛門と萱野三平を第1の急使として赤穂へ派遣
同日申の下刻(午後5時頃) 一関藩田村家より浅野内匠頭の遺体を引き渡したいから家臣を送るようにという使者が浅野大学に
同日六つ半(午後7時前後) 浅野内匠頭切腹
3月19日(4月26日)卯の刻(日の出前) 第一の急使(早水藤左衛門満尭と萱野三平重実)
同日酉の刻(午後7時頃) 第二の急使(足軽飛脚 刃傷事件発生の事実と藩札処理の指示)
同日戌の刻(午後11時頃) 第三の急使(原惣右衛門元辰と大石瀬左衛門信清 藩主浅野内匠頭切腹の情報)
3月22日(4月29日) 第四報(町飛脚 浅野大学長広お預かりの情報)
3月25日(5月2日) 第五報(町飛脚 江戸浅野家上下屋敷召し上げの情報)
3月27日(5月4日) 赤穂藩の評定(3日間)
3月28日(5月5日) 第六報(赤穂城収城目付及び赤穂代官決定の情報)
4月15日(5月22日) 収城目付荒木政羽と榊原政殊が到着
4月19日(5月26日) 赤穂城開城
※参照サイト「忠臣蔵新聞-赤穂城の明け渡し」
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