2011年12月18日日曜日
鼠よけの猫 歌川国芳
鼠よけの猫 歌川国芳 1830年頃
"此圖ハ猫の絵に妙を得し一勇齋の寫真(しやううつし)の圖にして これを家内に張おく時にハ鼠もこれをミれバおのづとおそれをなし次第にすくなくなりて出る事なし たとへ出るともいたづらをけつしてせず 誠に妙なる圖なり 福川堂 記"
※郡山市立美術館での国芳展を前後期の二度見に行くことができた。前期にこの絵があり、うれしくて詞書を会場でメモした。帰ってググってみれば人気の絵だから、アチコチに文字おこしをしている人がいる。まあ好みの表記法があるので記念に書きつけておく。
誠忠義士傳 間瀬宙太夫正明 歌川国芳
No. 44 Mase Chudayu Masaaki / Seichu gishi den (Biographies of Loyal and Righteous Samurai) / Kuniyoshi
誠忠義士傳 間瀬宙太夫正明 歌川国芳 1847年
“正明ハ三ツ橋浄定と變名して格子町に借家なし医師をなす 子息孫九郎ハ小市郎と改名し西國より鎮守再興勧化の事 領主へねがひに出たる者の由にて義徒三四人浄定方へ同居なし居たり 十二月十四日討入におよび宙太夫行年六十二歳といへども壮健なる事 血気隆(さかん)なる者に少も劣ず二番手に列して玄関より矢声を係て切入たり 敵方森伴左エ門と渡り合双方勇猛を争ひ勇を震つて血戦す 原三村是を見て森の太刀先するどけれバ老人間瀬を討せじと横合より討てかゝれバ勇気燦然として宙太夫ハ少もひるまず 爰構ハずと奥へ/\ と呼ハりて猛虎の荒たるごとく鍔元より火花をちらし戦ひを譲らず一ト駻(はね)はねて討込太刀狙ひ違ハず森の眉間鉢巻係て切こめバ刀ハ国俊手練の達人眞二ツにぞ切割たり 森ハ其儘叫もあへず血煙立て死たりける宙太夫ハ手始よしと血刀振て奥を目掛馳入バ小守源次と名乗かけ太刀真向に立塞り戸口を入れじと支たり 面倒なりと打あハせ上段下段と切結ぶ 小守も聞ゆる強勇なれども敵しがたくやのがれんと跡へひかんとする所を横に拂へバ受損じ右のあばらの下より上へ二ツに切て捨さりしハ実に目覚しき老人の働きなりと感じけり 応需 一筆葊 誌”
2011年8月21日日曜日
てるてる法主おひよりおどり 歌川国芳
てるてる法主おひよりおどり 歌川国芳 年代不詳
おひよりごきとふ/\ てり升/\てらせ升
おてんきくわいせい/\ お子さまがたのおてざいく
あしたハおひよりはれ升/\
おてんき/\ おひより/\/\
めつそなおてんきごうぎなおひより
てり升/\/\"
お日和ご祈祷お日和ご祈祷 照り升照り升照らせ升
お天気快晴お天気快晴 お子様方のお手細工
明日はお日和 晴れ升晴れ升
お天気お天気 お日和よりより
滅相なお天気 豪儀なお日和
照り升ますます
おひよりごきとふ/\ てり升/\てらせ升
おてんきくわいせい/\ お子さまがたのおてざいく
あしたハおひよりはれ升/\
おてんき/\ おひより/\/\
めつそなおてんきごうぎなおひより
てり升/\/\"
お日和ご祈祷お日和ご祈祷 照り升照り升照らせ升
お天気快晴お天気快晴 お子様方のお手細工
明日はお日和 晴れ升晴れ升
お天気お天気 お日和よりより
滅相なお天気 豪儀なお日和
照り升ますます
2011年8月15日月曜日
甲越勇将傳 武田家廿四将 山本勘助入道鬼齋晴幸 歌川国芳
Yamamoto Kansuke Nyudo Dokisai Haruyuki / Koetsu yusho den Takeda-ke nijushi-sho (Biographies of Heroic Generals of Kai and Echigo Provinces, Twenty-four Generals of the Takeda Clan) / Kuniyoshi
甲越勇将傳 武田家廿四将 山本勘助入道鬼齋晴幸 歌川国芳 1848年
"三州牛窪の産 幼稚(おさなき)より兵書に眼を曝(さらし)て孫呉が奇術を得たり若冠(わかゝり)し時故有て五體不具となりし事或ハ武田家に仕官(つかへ)て所々に勲功ありし等ハ人能知れバ此紙に不言 扨も永禄四年辛酉九月四日に武田上杉の両軍勢川中嶋に合戦の砌 敵将謙信奇計をめぐらし車係の陣を布(しき)味方の勢の難義といひ曾(かつ)ハ大将の籏本さへ危しと見切しかバさらバ命を爰に捨て君恩を報ずべしと手勢を撰(すぐつ)て七十五人 北越無雙の勇将と聞し長尾越前守義景が勇ミ進める兵の中へ會釋もなく突て入 縦横無盡に切て廻り目に余る大軍を七度まで追崩し身も鉄石にあらざれバ數ヶ所の深手に是までなりと一歩も不去(さらず)討死なししハ實(げ)に比類なき働ともまた惜むべき有様ともいふべし 應需 柳下亭種員誌"
2011年8月8日月曜日
太平記英勇傳 荒儀攝津守村重 歌川国芳
no. 27 Aragi Settsu-no-kami Murashige / Taiheiki eiyuden (Heroes of the Great Peace) / Kuniyoshi
太平記英勇傳 荒儀攝津守村重 歌川国芳 1848~1850年頃
"攝州伊丹城主なり其先将軍義昭公に随従して春永に鉾楯(ぼうじゆん)せしが義昭公の柔弱なるをうとんじ大多に降り春永の面前に出るに及んで村重の曰己が領國摂州の地ハ総て十三郡分國にして敵徒所々に城を構へ兵士を集むあハれ其(それがし)に切取の事を仰付られなバ身命を抛(なげうち)切鎮るべしと言上なすに春永莞尓として答をなさず坐右を見玉ふに高坏に饅頭を盛並しものあり腰刀を引抜切先に三ツ五ツ串貫(さしつらぬき)いかに村重我寸志なり食すべしとて目の上に差付たまふ一坐色を失なふ中に荒儀聊(いさゝか)恐るゝさまなく有がたしとにじりより大の口をくわつと開き切先に貫し饅頭を只一ト口に食んとなす春永大きに笑ひ玉ひ聞及し汝が大膽我をさへ驚せり望に任せ切取て摂津守たるべしと仰けれバ村重面目を施し直に打立程なく一國を切従へしが後再び春永に叛き竟(つひ)に伊丹の城を責落され圍(かこミ)を切抜一命を遁れ剃髪して一期を送りしとかや 一家略傳史 柳下亭種員記"
2011年8月2日火曜日
本朝文雄百人一首 巴女 歌川国芳
Tomoe-jo, from the series One Hundred Poets from the Literary Heroes of Our Country (Honchô bun'yû hyakunin isshu) / Kuniyoshi
本朝文雄百人一首 巴女 歌川国芳 1842~1843年頃
"權頭兼遠が女(むすめ)木曽義仲の妾(せふ)武勇力量人に越え無双の美人なり義仲亡びて後 和田義盛に嫁し一子を産 義秀これ也 和田合戦後越中に尼となり引篭(ひきこもり)九十余才まで壽ける"
"おほ空に月のひかりもきよけれバ 影見し水ぞ まづこほりける ともへ"
古今和歌集 巻第六 冬歌 三一六 題しらず よみ人しらず
大空の月の光しきよければ影見し水ぞまづ凍ける
本朝文雄百人一首 巴女 歌川国芳 1842~1843年頃
"權頭兼遠が女(むすめ)木曽義仲の妾(せふ)武勇力量人に越え無双の美人なり義仲亡びて後 和田義盛に嫁し一子を産 義秀これ也 和田合戦後越中に尼となり引篭(ひきこもり)九十余才まで壽ける"
"おほ空に月のひかりもきよけれバ 影見し水ぞ まづこほりける ともへ"
古今和歌集 巻第六 冬歌 三一六 題しらず よみ人しらず
大空の月の光しきよければ影見し水ぞまづ凍ける
古根本朝名女百傳 巴御前 歌川国芳
Tomoe Gozen, from the series One Hundred Stories of Famous Women of Japan, Ancient and Modern (Kokon honchô meijo hyakuden) / Kuniyoshi
古根本朝名女百傳 巴御前 歌川国芳 1843年頃
"和田義盛の内室となる木曽殿打死の時生捕となつて鎌倉へひかれしに頼朝公かねて巴が勇力をきこしめされその力をためし玉ハんと御前に召いだしいかに巴とやらん主家の大事に力やおちけんとのたまふをきいて寛尓(につこ)とわらひ座をたつて柳営の真中に建たる柱に諸手をかけ左のミ(さのみ)力もいれざる様にてアイと一トゆりゆりけれバ殿中地震(ない)のふるふが如くいまや御舘(みたち)もくづれんとする大将はじめ仕候の面/\其怪力を懼(おそれ)けるとぞ ひきぬきし松ばかりかと? こころねも をれてふたゝび つまさだめせし 柳下亭種員記"
古根本朝名女百傳 巴御前 歌川国芳 1843年頃
"和田義盛の内室となる木曽殿打死の時生捕となつて鎌倉へひかれしに頼朝公かねて巴が勇力をきこしめされその力をためし玉ハんと御前に召いだしいかに巴とやらん主家の大事に力やおちけんとのたまふをきいて寛尓(につこ)とわらひ座をたつて柳営の真中に建たる柱に諸手をかけ左のミ(さのみ)力もいれざる様にてアイと一トゆりゆりけれバ殿中地震(ない)のふるふが如くいまや御舘(みたち)もくづれんとする大将はじめ仕候の面/\其怪力を懼(おそれ)けるとぞ ひきぬきし松ばかりかと? こころねも をれてふたゝび つまさだめせし 柳下亭種員記"
2011年7月31日日曜日
東海道五十三對 藤枝 歌川国芳
Fujieda / Tokaido gojusan-tsui (Fifty-three pairings along the Tokaido Road) / Kuniyoshi
東海道五十三對 藤枝 歌川国芳 1845年頃
"熊谷次郎直実佛門に入て上洛し黒谷の法然上人の弟子となり蓮生法師と改め故郷へかへる道 藤枝の駅に宿せし家にて鳥目壱〆文(いつくわんもん)を上洛まで借用して其質物(しちもつ)に十念を授け故郷へ帰り其後又上洛の砌壱〆文を返し預け置し十念を今又我に玉ハれといふにいと安き事と十念を返す不思議なるハ初め十念を受し時 池に蓮華十茎咲出たるが今返す時念佛一遍に一茎づゝ消失せり此奇特を感じ責て一ぺんハ我に残し玉ハれと願へバ念佛一遍を与へ上洛しける夫より此家を寺となし蓮生寺と号するなり"
東海道五十三對 藤枝 歌川国芳 1845年頃
"熊谷次郎直実佛門に入て上洛し黒谷の法然上人の弟子となり蓮生法師と改め故郷へかへる道 藤枝の駅に宿せし家にて鳥目壱〆文(いつくわんもん)を上洛まで借用して其質物(しちもつ)に十念を授け故郷へ帰り其後又上洛の砌壱〆文を返し預け置し十念を今又我に玉ハれといふにいと安き事と十念を返す不思議なるハ初め十念を受し時 池に蓮華十茎咲出たるが今返す時念佛一遍に一茎づゝ消失せり此奇特を感じ責て一ぺんハ我に残し玉ハれと願へバ念佛一遍を与へ上洛しける夫より此家を寺となし蓮生寺と号するなり"
2011年7月30日土曜日
百人一首之内 大納言経信 歌川国芳
Poem by Dainagon Tsunenobu, from the series of One Hundred Poems by One Hundred Poets (Hyakunin-issu no uchi) / Kuniyoshi
百人一首之内 大納言経信 歌川国芳 1840~1842年頃
"夕されば門田のいなばおとづれて あしのまろやに秋風ぞ吹く 金葉集秋の部に入る?この詞書に師賢朝臣乃梅津の山里に人々まかりて田家の秋風といふことをよめる歌とあり夕されバは夕暮のさま也芦のまろやとハ芦にて造れる家にてその門田の稲葉ゆへ秋風にそよぐ風情ものかなしくえもいわれぬ趣きを述たるなり"
"六条に住ける頃九月の月の夜にきぬたの音聞こえけれバ から衣擣(う)つこゑきけバ月きよミまだねぬ人を空にしる哉 と詠じけるをりから鬼神詩を吟ずるの図"
"経信の師大納言、八条わたりにすみ給ける頃、九月はかりに、月のあかゝりけるに、なかめしておはしけり。きぬたのをとのほのかにきこえ侍れは、四条大納言の歌、から衣うつ声きけは月きよみまたねぬ人を空にしる哉 と詠し給に、前栽の方に、北斗星前横旅鳫 南楼月下擣寒衣 と云詩を、実におそろしき声して、たからかに詠する物有。誰はかりかく目出き声したらんと覚て、おとろきてみやり給に、長一丈五六尺も侍らんとおほえて、髪のさかさまにおひたるものにて侍り。こはいかに、八幡大菩薩、たすけさせ給へと祈念し給へるに、此もの、なにかはたゝりをなすへきとて、かきけちうせ侍りぬ。さたかに、いかなるものの姿とは、よくも覚すと語給へりけり。朱雀門の鬼なんとにや侍りけん。それこそ其頃さやうのすき物にては侍しか。" 「撰集抄」<巻八第二七 四条大納言・歌>
北斗星前横旅鳫 北斗の星の前に旅雁横たはり
南楼月下擣寒衣 南楼の月の下には寒衣を擣(う)つ
劉元叔「妾薄命」より『和漢朗詠集』346
百人一首之内 大納言経信 歌川国芳 1840~1842年頃
"夕されば門田のいなばおとづれて あしのまろやに秋風ぞ吹く 金葉集秋の部に入る?この詞書に師賢朝臣乃梅津の山里に人々まかりて田家の秋風といふことをよめる歌とあり夕されバは夕暮のさま也芦のまろやとハ芦にて造れる家にてその門田の稲葉ゆへ秋風にそよぐ風情ものかなしくえもいわれぬ趣きを述たるなり"
"六条に住ける頃九月の月の夜にきぬたの音聞こえけれバ から衣擣(う)つこゑきけバ月きよミまだねぬ人を空にしる哉 と詠じけるをりから鬼神詩を吟ずるの図"
"経信の師大納言、八条わたりにすみ給ける頃、九月はかりに、月のあかゝりけるに、なかめしておはしけり。きぬたのをとのほのかにきこえ侍れは、四条大納言の歌、から衣うつ声きけは月きよみまたねぬ人を空にしる哉 と詠し給に、前栽の方に、北斗星前横旅鳫 南楼月下擣寒衣 と云詩を、実におそろしき声して、たからかに詠する物有。誰はかりかく目出き声したらんと覚て、おとろきてみやり給に、長一丈五六尺も侍らんとおほえて、髪のさかさまにおひたるものにて侍り。こはいかに、八幡大菩薩、たすけさせ給へと祈念し給へるに、此もの、なにかはたゝりをなすへきとて、かきけちうせ侍りぬ。さたかに、いかなるものの姿とは、よくも覚すと語給へりけり。朱雀門の鬼なんとにや侍りけん。それこそ其頃さやうのすき物にては侍しか。" 「撰集抄」<巻八第二七 四条大納言・歌>
北斗星前横旅鳫 北斗の星の前に旅雁横たはり
南楼月下擣寒衣 南楼の月の下には寒衣を擣(う)つ
劉元叔「妾薄命」より『和漢朗詠集』346
2011年7月29日金曜日
義士評定之圖 歌川国芳
Gishi hyojo no zu / Kuniyoshi
義士評定之圖 歌川国芳 年代不詳
"一ノ注進 早野勘平 ニノ注進 千崎弥五郎 三ノ注進 速水藤左衛門?"
実際の赤穂藩への急使の状況はwikiによると以下の通り。
元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)巳の刻(午前10時頃) 松之大廊下の刃傷
同日未の刻(午後2時頃) 浅野大学は書状を国家老・大石内蔵助にしたためて、早水藤左衛門と萱野三平を第1の急使として赤穂へ派遣
同日申の下刻(午後5時頃) 一関藩田村家より浅野内匠頭の遺体を引き渡したいから家臣を送るようにという使者が浅野大学に
同日六つ半(午後7時前後) 浅野内匠頭切腹
3月19日(4月26日)卯の刻(日の出前) 第一の急使(早水藤左衛門満尭と萱野三平重実)
同日酉の刻(午後7時頃) 第二の急使(足軽飛脚 刃傷事件発生の事実と藩札処理の指示)
同日戌の刻(午後11時頃) 第三の急使(原惣右衛門元辰と大石瀬左衛門信清 藩主浅野内匠頭切腹の情報)
3月22日(4月29日) 第四報(町飛脚 浅野大学長広お預かりの情報)
3月25日(5月2日) 第五報(町飛脚 江戸浅野家上下屋敷召し上げの情報)
3月27日(5月4日) 赤穂藩の評定(3日間)
3月28日(5月5日) 第六報(赤穂城収城目付及び赤穂代官決定の情報)
4月15日(5月22日) 収城目付荒木政羽と榊原政殊が到着
4月19日(5月26日) 赤穂城開城
※参照サイト「忠臣蔵新聞-赤穂城の明け渡し」
義士評定之圖 歌川国芳 年代不詳
"一ノ注進 早野勘平 ニノ注進 千崎弥五郎 三ノ注進 速水藤左衛門?"
実際の赤穂藩への急使の状況はwikiによると以下の通り。
元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)巳の刻(午前10時頃) 松之大廊下の刃傷
同日未の刻(午後2時頃) 浅野大学は書状を国家老・大石内蔵助にしたためて、早水藤左衛門と萱野三平を第1の急使として赤穂へ派遣
同日申の下刻(午後5時頃) 一関藩田村家より浅野内匠頭の遺体を引き渡したいから家臣を送るようにという使者が浅野大学に
同日六つ半(午後7時前後) 浅野内匠頭切腹
3月19日(4月26日)卯の刻(日の出前) 第一の急使(早水藤左衛門満尭と萱野三平重実)
同日酉の刻(午後7時頃) 第二の急使(足軽飛脚 刃傷事件発生の事実と藩札処理の指示)
同日戌の刻(午後11時頃) 第三の急使(原惣右衛門元辰と大石瀬左衛門信清 藩主浅野内匠頭切腹の情報)
3月22日(4月29日) 第四報(町飛脚 浅野大学長広お預かりの情報)
3月25日(5月2日) 第五報(町飛脚 江戸浅野家上下屋敷召し上げの情報)
3月27日(5月4日) 赤穂藩の評定(3日間)
3月28日(5月5日) 第六報(赤穂城収城目付及び赤穂代官決定の情報)
4月15日(5月22日) 収城目付荒木政羽と榊原政殊が到着
4月19日(5月26日) 赤穂城開城
※参照サイト「忠臣蔵新聞-赤穂城の明け渡し」
2011年7月28日木曜日
人間萬事愛婦美八卦意 癇積の晴嵐 損 歌川国芳
The Trigram Xun, Wind: Loss, Clearing Weather after a Temper Tantrum (Son, kanshaku no seiran), from the series Eight Views of Incidents in Daily Life: Women Representing the Eight Trigrams (Ningen banji ômi hakkei) / Kuniyoshi
人間萬事愛婦美八卦意 癇積の晴嵐 損 歌川国芳 1849~1850年頃
"此卦にあたる人ハどうもかんしやくがあつてじり/\して やゝともするとなにかをこハす事があり それハまことにわるいしやれにて とがもなきどびんやゆのミがいつでもやられるなり これほんのむだ事にて あとにてすぐにかハねバようがたりず さつそくそんがゆくなり じつにたんきハそんきできんせんをつひやし たぬきせんきできんたまをふくらし せつかくたまつたどうぐをかんしやくでこハし/\するとほねをりぞんのくたびれまうけなり それゆゑにせき損さまの御しんごんにも こハすハそんだばさらんだ?とまうす ありがたし/\"
人間萬事愛婦美八卦意 癇積の晴嵐 損 歌川国芳 1849~1850年頃
"此卦にあたる人ハどうもかんしやくがあつてじり/\して やゝともするとなにかをこハす事があり それハまことにわるいしやれにて とがもなきどびんやゆのミがいつでもやられるなり これほんのむだ事にて あとにてすぐにかハねバようがたりず さつそくそんがゆくなり じつにたんきハそんきできんせんをつひやし たぬきせんきできんたまをふくらし せつかくたまつたどうぐをかんしやくでこハし/\するとほねをりぞんのくたびれまうけなり それゆゑにせき損さまの御しんごんにも こハすハそんだばさらんだ?とまうす ありがたし/\"
偽一休和尚説法之図 歌川国芳
The False Ikkyû Preaching to the Bill Collectors / Kuniyoshi
偽一休和尚説法之図 歌川国芳 1843~1847年頃
"一休和尚ハ後小松天皇の御落胤なり其名を宗純と申し都紫野大徳寺なる宗曇花叟の嗣法にて出藍の方(さえ)弥(いよ/\)高く禅機悟法に長給ふ故 世の人是を生佛と称す 或年河内国生駒嶽(いこまやま)の麓に閑居したまひしに、時節(おりしも)極月(ごくげつ)晦日(つごもり)の夜 草庵へ討債(かけこい)共の大勢にて来りしかバ御弟子箔蔵主(はくぞうず)ハ侠客野晒悟助(おとこだてのざらしごすけ)といひあハせ、自(みずから)一休なりといつはり地獄極楽の有様を軍陣のことによけ?いと面白く法談なし或ハ諸経の趣意をやハらげ無常迅速の理を世にあハれげに説けれバ悟助ハ程よき頃を見て勧進木さく(柄杓)を持まハるに聴衆の面々感にたへ債(はたる)ことハうち忘れ貸高を記した帳面に墨をひきて消あれバ他所にて債りし金銭を布施物にいるゝ者も有て暫時欲念を散じけるとぞ 故人京伝翁の著作せられし本朝酔菩提の文を省略して 柳下亭種員筆記"
"はたるべき かけハはたらで つみとがの帳けしをさへねがふをかしさ たねかず"
参照:錦絵の風刺画データベース(ウィーン大学)
偽一休和尚説法之図 歌川国芳 1843~1847年頃
"はたるべき かけハはたらで つみとがの帳けしをさへねがふをかしさ たねかず"
参照:錦絵の風刺画データベース(ウィーン大学)
古根本朝名女百傳 綺田村孝女 歌川国芳
The Filial Daughter of Kawada Village (Kawadamura kôjo), from the series One Hundred Stories of Famous Women of Japan, Ancient and Modern (Kokon honchô meijo hyakuden) / Kuniyoshi
古根本朝名女百傳 綺田村孝女 歌川国芳 1843年
"山城國綺田村(かハだむら)に善心深き農民あり一人の女子を持しが顔貌美く父母に至孝にて幼少より佛を帰依し父或時童の為に殺れんとせし蟹を救け或日また蛇(くちなハ)の蟇を呑んとするを見て汝蟇を放ちやらバ我娘を與(あたへ)んと戯れに云たりしに言葉の如く放やり次の夜より人と化し約束の息女をたまハれと來ること三夜なり終に女を与へざれバ正身の蛇となつて寝間近く來りしかバ小女ハ一心に普門品を讀誦し信心す折から數多の蟹あらハれ件の蛇を亡して危き難をすくひける今彼所にある普門山蟹満寺ハ其蛇を埋たる地へ建しものなり くちなハの呑んとよれる池水にわかかへる手のかげやとめけん 柳下亭種員記"
古根本朝名女百傳 綺田村孝女 歌川国芳 1843年
"山城國綺田村(かハだむら)に善心深き農民あり一人の女子を持しが顔貌美く父母に至孝にて幼少より佛を帰依し父或時童の為に殺れんとせし蟹を救け或日また蛇(くちなハ)の蟇を呑んとするを見て汝蟇を放ちやらバ我娘を與(あたへ)んと戯れに云たりしに言葉の如く放やり次の夜より人と化し約束の息女をたまハれと來ること三夜なり終に女を与へざれバ正身の蛇となつて寝間近く來りしかバ小女ハ一心に普門品を讀誦し信心す折から數多の蟹あらハれ件の蛇を亡して危き難をすくひける今彼所にある普門山蟹満寺ハ其蛇を埋たる地へ建しものなり くちなハの呑んとよれる池水にわかかへる手のかげやとめけん 柳下亭種員記"
2011年7月27日水曜日
賢女烈婦傳 玉依姫 歌川国芳
Tamayori-hime [=Tamaori-hime], from the series Stories of Wise Women and Faithful Wives (Kenjo reppu den) / Kuniyoshi
賢女烈婦傳 玉依姫 歌川国芳 1842~1843年頃
"按察使大納言輔方卿の女無冠太夫敦盛が室也 夫須磨にて打死の後剃髪禅衣の姿となり其名を蓮華尼公といひ花洛五條新善光寺御影堂に閑居し阿小女扇を制し玉ふ今扇屋に御影堂の名あるハ此女性をもつて鼻祖とするなり"
賢女烈婦傳 玉依姫 歌川国芳 1842~1843年頃
"按察使大納言輔方卿の女無冠太夫敦盛が室也 夫須磨にて打死の後剃髪禅衣の姿となり其名を蓮華尼公といひ花洛五條新善光寺御影堂に閑居し阿小女扇を制し玉ふ今扇屋に御影堂の名あるハ此女性をもつて鼻祖とするなり"
2011年7月23日土曜日
本朝劔道略傳 松井冨次郎茂仲 歌川国芳
Matsui Tomijirô Shigenaka, from the series Biographies of Our Country's Swordsmen (Honchô kendô ryakuden) / Kuniyoshi
本朝劔道略傳 松井冨次郎茂仲 歌川国芳 1845~1846年頃
"幼稚時異人に倡(いざな)ハれ劔法を学びその後父の家に皈(かへ)り日夜学問執行なし暮せしに故あつて兄を何某に討れ其仇を尋んと所々方々廻りありき或時人も通ハぬ山中に分入このやま越にたどり行かバいづれへかむかふべし行て見むやと只一人道もなき山越にて日もはややう/\西にかたむきしころ一ツのながれに出たりしが何心なく此川をわたりしニ此方の岸なる草深き所より数千の蛇一群となりむかふの岸へわたりいづくともなくされけれバふしぎと見るうち年の頃三十ばかりなる女忽然と来りて云たるハ今蛇の川を渡りたるハきのふ降たる雨に川水ましたれバ蛇疑ひて集り居たるが今御身の渡たまひし?をみて夫をたよりに渡りしなりと語るこれ仙女にして冨次郎にさまざまの薬を与へ身の行末を教へ立去たる此後彼薬を服して大蛇をうち其毒氣を遁れしとぞ誠に名誉の達人と云つべし"
本朝劔道略傳 松井冨次郎茂仲 歌川国芳 1845~1846年頃
"幼稚時異人に倡(いざな)ハれ劔法を学びその後父の家に皈(かへ)り日夜学問執行なし暮せしに故あつて兄を何某に討れ其仇を尋んと所々方々廻りありき或時人も通ハぬ山中に分入このやま越にたどり行かバいづれへかむかふべし行て見むやと只一人道もなき山越にて日もはややう/\西にかたむきしころ一ツのながれに出たりしが何心なく此川をわたりしニ此方の岸なる草深き所より数千の蛇一群となりむかふの岸へわたりいづくともなくされけれバふしぎと見るうち年の頃三十ばかりなる女忽然と来りて云たるハ今蛇の川を渡りたるハきのふ降たる雨に川水ましたれバ蛇疑ひて集り居たるが今御身の渡たまひし?をみて夫をたよりに渡りしなりと語るこれ仙女にして冨次郎にさまざまの薬を与へ身の行末を教へ立去たる此後彼薬を服して大蛇をうち其毒氣を遁れしとぞ誠に名誉の達人と云つべし"
豪傑松井民次郎茂仲
本文 - 豪傑松井民次郎茂仲|近代デジタルライブラリー 松月堂魯山口演 吉田松茵速記 明43.10(1910年)
第十七席(百十六頁より)
・・・明くれば慶安元年九月の三十日、民次郎十六歳の時でございます、住み馴れました山形城下を出立に及びましてございます、さて民次郎は山形を出立致しましたが、急がぬ旅でございますから、同國上の山の城下まで参りました時、民次郎不図思ふには「まて/\、之れから本道を行くのは面白うない、山越に家のあるないに関はらず、分け入つたならば、大概阿武隈川に出るであらう、間道を行つてやらう」と大胆不敵にも思ひ立ちました、夫れと云ふので人も通ひませぬ山越に掛りましたが、元来山走りの名人でございますから、行きます程に、日もやう/\西の端に傾く頃、二つの流れある處へ出ました、瀬は少し早い様でございますが、川幅十四五間もあるやうに見えましたから、何心なく裾をからげて流れに入り、向ふの岸へ越さうとしまする時、此方の山の草深き處から蛇が千疋餘り一群になつて水中に入り、さつさと向ふの岸へ泳ぎ越して、何處へか行つて了ひましたから、之れを眺めた民次郎は、いやらしい蛇の事でございますから、ギヨツと致しました「はてな何様變つた事である、之れは何にか仔細のある事であらう」と流れを渡つて、向ふの岸にて石に腰打ち掛け、蛇の事を考えて居ります。
第十八席
處へさして左りの峰の方から、年の頃三十前後と思はれました一人の女、顔形凡俗を離れたのが、麻に似て麻でない木綿に似て木綿でない一重の着物を纏ひまして、飄然と致して民次郎の傍へ出て来ました、民次郎は急度女の顔を眺めて居りますると彼の女はにこ/\笑ひながら 女「まうし貴方はまだ若年の御身で、斯る山中へお出でになりましたは、不思儀な事、此處は道を迷ふとも来り難い處でございますが、さて只今多くの蛇が川を渡つたのは、之れは不思儀な事ではありませぬ、昨日降った雨に、流れの水が増して居りまするから、蛇が數多一處に寄り集つて居ります處へ、貴方がお出でになつたから、蛇は驚ろいて、一時に向ふの岸へ渡つたのでございます、何も不思儀な事はありませぬ」と云ふのを民次郎は、つくづくと其の様子を見ますれば、言葉と云ひ、顔容と云ひ、中々世の常の人ではございませぬ、又妖怪の類とも見えませぬから、何様之れぞ世に云ふ仙人と云ふものであらう・・・
第十七席(百十六頁より)
・・・明くれば慶安元年九月の三十日、民次郎十六歳の時でございます、住み馴れました山形城下を出立に及びましてございます、さて民次郎は山形を出立致しましたが、急がぬ旅でございますから、同國上の山の城下まで参りました時、民次郎不図思ふには「まて/\、之れから本道を行くのは面白うない、山越に家のあるないに関はらず、分け入つたならば、大概阿武隈川に出るであらう、間道を行つてやらう」と大胆不敵にも思ひ立ちました、夫れと云ふので人も通ひませぬ山越に掛りましたが、元来山走りの名人でございますから、行きます程に、日もやう/\西の端に傾く頃、二つの流れある處へ出ました、瀬は少し早い様でございますが、川幅十四五間もあるやうに見えましたから、何心なく裾をからげて流れに入り、向ふの岸へ越さうとしまする時、此方の山の草深き處から蛇が千疋餘り一群になつて水中に入り、さつさと向ふの岸へ泳ぎ越して、何處へか行つて了ひましたから、之れを眺めた民次郎は、いやらしい蛇の事でございますから、ギヨツと致しました「はてな何様變つた事である、之れは何にか仔細のある事であらう」と流れを渡つて、向ふの岸にて石に腰打ち掛け、蛇の事を考えて居ります。
第十八席
處へさして左りの峰の方から、年の頃三十前後と思はれました一人の女、顔形凡俗を離れたのが、麻に似て麻でない木綿に似て木綿でない一重の着物を纏ひまして、飄然と致して民次郎の傍へ出て来ました、民次郎は急度女の顔を眺めて居りますると彼の女はにこ/\笑ひながら 女「まうし貴方はまだ若年の御身で、斯る山中へお出でになりましたは、不思儀な事、此處は道を迷ふとも来り難い處でございますが、さて只今多くの蛇が川を渡つたのは、之れは不思儀な事ではありませぬ、昨日降った雨に、流れの水が増して居りまするから、蛇が數多一處に寄り集つて居ります處へ、貴方がお出でになつたから、蛇は驚ろいて、一時に向ふの岸へ渡つたのでございます、何も不思儀な事はありませぬ」と云ふのを民次郎は、つくづくと其の様子を見ますれば、言葉と云ひ、顔容と云ひ、中々世の常の人ではございませぬ、又妖怪の類とも見えませぬから、何様之れぞ世に云ふ仙人と云ふものであらう・・・
※国芳の絵の状況が知りたくてざっと読んだのだが、巻頭のエピソードが面白い。幼少時の民次郎は鼻垂れ小僧で暗愚であろうと家族に思われていた。十一歳になった年、一家の花見の宴に老耄(おいぼれ)乞食が現れ民次郎をさらっていく。その時の乞食の言葉・・・
「アゝ松井内蔵とやら、此の子に教へる事があるから五年の間借りて行くぞや、決して悪うはせんから、心配せずに待て居れ」
木曾街道六十九次之内 松井田 山姥 松井民次郎 歌川国芳 1852年
2011年7月21日木曜日
實語教狂画童学 雖出貧賤門 為有智人者 歌川国芳
Jitsugokyô kyôga dôgaku / Kuniyoshi
實語教狂画童学 雖出貧賤門 為有智人者 歌川国芳 1848~1853年頃
雖出貧賤門 為有智人者 貧賤の門(かど)を出づると雖も 智有る人の為にハ
宛如泥中蓮 あたかも泥中の蓮(はちす)の如し
父母如天地 師君如日月 父母ハ天地の如く 師君ハ日月の如し
實語教狂画童学 雖出貧賤門 為有智人者 歌川国芳 1848~1853年頃
雖出貧賤門 為有智人者 貧賤の門(かど)を出づると雖も 智有る人の為にハ
宛如泥中蓮 あたかも泥中の蓮(はちす)の如し
父母如天地 師君如日月 父母ハ天地の如く 師君ハ日月の如し
實語教狂画童学 君子愛智者 小人愛福人 歌川国芳
Jitsugokyô kyôga dôgaku / Kuniyoshi
實語教狂画童学 君子愛智者 小人愛福人 歌川国芳 1848~1853年頃
君子愛智者 小人愛福人 君子ハ智者を愛し 小人ハ福人を愛す
雖入富貴家 為無財人者 富貴の家に入ると雖も 財無き人の為にハ
猶如霜下花 なほ霜の下の花の如し
實語教狂画童学 君子愛智者 小人愛福人 歌川国芳 1848~1853年頃
君子愛智者 小人愛福人 君子ハ智者を愛し 小人ハ福人を愛す
雖入富貴家 為無財人者 富貴の家に入ると雖も 財無き人の為にハ
猶如霜下花 なほ霜の下の花の如し
實語教狂画童学 幼時不勤学 老後雖恨悔 歌川国芳
Jitsugokyô kyôga dôgaku / Kuniyoshi
實語教狂画童学 幼時不勤学 老後雖恨悔 歌川国芳 1848~1853年頃
幼時不勤学 老後雖恨悔 幼時(いとけなきとき)勤め学バずんバ 老いて後に恨み悔ゆるといへども
尚無有所益 故讀書勿倦 なほ所益有ること無し 故(かるがゆへ)に書を読んで倦むことなかれ
学文勿怠時 除眠通夜誦 学文怠る時なかれ 眠りを除いて通夜(よもすがら)誦せ
忍飢終日習 雖會師不学 飢へを忍んで終日(ひねもす)習ひ 師に會ふと雖も学バざれバ
徒如向市人 徒(いたづら)に市人(いちびと)に向かふが如し
雖習讀不復 只如計隣財 習ひ読むと雖も復せざれバ 只隣の財(たから)を数ふるが如し
實語教狂画童学 幼時不勤学 老後雖恨悔 歌川国芳 1848~1853年頃
幼時不勤学 老後雖恨悔 幼時(いとけなきとき)勤め学バずんバ 老いて後に恨み悔ゆるといへども
尚無有所益 故讀書勿倦 なほ所益有ること無し 故(かるがゆへ)に書を読んで倦むことなかれ
学文勿怠時 除眠通夜誦 学文怠る時なかれ 眠りを除いて通夜(よもすがら)誦せ
忍飢終日習 雖會師不学 飢へを忍んで終日(ひねもす)習ひ 師に會ふと雖も学バざれバ
徒如向市人 徒(いたづら)に市人(いちびと)に向かふが如し
雖習讀不復 只如計隣財 習ひ読むと雖も復せざれバ 只隣の財(たから)を数ふるが如し
實語教狂画童学 雖積千両金 不如一日学 歌川国芳
Jitsugokyô kyôga dôgaku / Kuniyoshi
實語教狂画童学 雖積千両金 不如一日学 歌川国芳 1848~1853年頃
雖積千両金 不如一日学 千両の金(こがね)を積むと雖も 一日の学にハ如かず
兄弟常不合 慈悲為兄弟 兄弟は常に会わず 慈悲を兄弟とす
財物永不存 才智為財物 財物は永く存せず 才智を財物とす
四大日々衰 心神夜々暗 四大日々衰へ 心神(しんじん)夜々(やや)暗し
實語教狂画童学 雖積千両金 不如一日学 歌川国芳 1848~1853年頃
雖積千両金 不如一日学 千両の金(こがね)を積むと雖も 一日の学にハ如かず
兄弟常不合 慈悲為兄弟 兄弟は常に会わず 慈悲を兄弟とす
財物永不存 才智為財物 財物は永く存せず 才智を財物とす
四大日々衰 心神夜々暗 四大日々衰へ 心神(しんじん)夜々(やや)暗し
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