2012年6月11日月曜日
絵本通俗三国志より「華陀刮骨治関羽」
絵本通俗三国志. 初,2-8編 / 池田東籬亭 校正 ; 葛飾戴斗 画図
五編巻之八 華陀刮骨治関羽
関羽。すでに。魏の七軍を打平げて。一手の勢を。郟下にさしむけ。みづから。大軍を引て。樊城の四方を囲ミ。北の門に馬を立て。汝等城中の鼠。なんぞ。早く降らざる。われ忽ちに打破て。一人も餘さじと。よバゝり。大膚抜になりて。兵を下知しけれバ。曹仁。矢倉の上より。望ミ見て。きうに。五百余張の弩を。同時にはなち出しけるに。関羽。右の臂を射れ。馬より。倒(さかさ)まに落しかば。城中より。これを見て。曹仁。一度に討て出けれバ。関平。兵を進て。大に戦ひ。父を救て。本陣に回(かへ)り。鏃を掘て抜けるに。元来。毒藥を付たる。矢なりしかバ。血流れて止ず。臂ハ。青く腫て。痛はなハだ忍びがたし。関平。諸将をあつめて申けるハ。父の矢瘡。痛手なれバ。しバらく戦ひを休(やめ)。荊州に回りて。保養すべし。王甫が曰く。某が意(こゝろ)も。相同じとて。ともに帳中に入て。その体を見に。関羽。席上に坐して。常に異ならず。汝等。いかなる。ゆへかあると。問けれバ。王甫が曰く。某等ミな。将軍の矢瘡重を見に。若(もし)敵に臨んで。怒を発し。又ハ合戦に出て。臂を使ひ玉ハんことを怕(おそ)れ。諸人相議して。しバらく。荊州に回らんと存じ候。関羽。怒つて申けるハ。われ。樊城を取こと。目前にあり。樊城をとりて。後の患(うれひ)を除き。長く駈て。大にすゝミ。都の内に攻入て。曹操が首を刎。再び。漢の天下を。興さんことハ。これ我。もとよりの願也。豈小の矢瘡によりて。これ程の。大事を廃せんや。汝等。無用の舌を揺(うごか)して。諸軍の心を。おこたらしむることなかれと。叱けれバ。諸将おそれて退出す。しかれ共。瘡の痛。はなハだしく。なりけるゆへ。四方に人を遣して。名ある毉者を尋けれバ。ある日。一人の毉士。小舟にのりて。呉の國より來る。関平。よび入れて。對面すれバ。その人。あやしき衣を被て。臂に青き嚢(ふくろ)をかけ。某ハ。沛國譙の人にて。華陀。字ハ元化と申もの也。関将軍ハ。天下の義士。いま毒の矢に。中(あたり)玉ふときいて。療治を加ん為に。來れりといひけれバ。関平問て曰く。御辺ハ。そのかミ。呉の大将。周泰が瘡を治したる人か。華陀が曰く。しかり。関平大に喜び。諸将とともに。中軍に入りて見れバ。関羽ハ。臂の痛。はなハだし。かりけれども。諸軍の。乱れんことを怕れ。痛をしのんで。馬良と。碁を打て。居りけり。関平すなハち。華陀を引て。對面させけれバ。関羽座をたまふて。傍に坐せしむ。華陀。瘡を見んと請けれバ。関羽。衣を袒(かたぬ)ぎ。臂を伸て。見せしむるに。華陀申けるハ。これハ弩の矢瘡にして。烏頭といふ。毒藥。すでに。骨に透り入れり。もし。はやく治せずんバ。この臂ながく廃るべし。関羽が曰く。いかなる。物をもつて。治すべきぞ。華陀が曰く。たゞ怕くハ。将軍の。おどろき怕れ玉ハんことを。関羽笑つて曰く。われ死をだに顧ミず。なんの怕るゝことかあらん。華陀が曰く。靜なる所に。一つの柱を立。鉄の環を打て。将軍の臂を。環の中に入れ。縄を以てよく/\縛り。被(ふすま)をもつて顔を?(おほふ 蒙)。病人。これを見れバ。怕れ動くことを。おもふゆへなり。われ。刀をもつて。皮肉をさき。ひらき。骨に付たる。毒を刮りて。藥をもつて。これを塗。その口をぬふときハ。おのづから。無事ならん。たゞ怕らくバ。将軍。おどろき怕れたまふべし。関羽笑て曰く。これにすぎたる。易きことやある。何(なんぞ)柱を用ゆべきとて。酒を出して。もてなし。ミづから。数杯をのんで。本のごとく。又馬良と基を囲ミ。右の臂を伸て。華陀にさづけしかバ。華陀。手に刀をもつて。一人の士卒に。盆をさゝげて血を受させ。たゞ今。切破り候ぞ。おどろき玉ふなと云けれバ。関羽が曰く。早く割玉へ。われなんぞ。世間の小児と。おなじからん。御辺心のまゝに療治せよ。華陀すなハち刀をもつて。皮肉を尽く。切破り。骨を出して。これを見るに。骨すでに毒にそみて。その色青しすなハち刀をもつて。これを割に。満座ミな面を掩て。色をうしなハずと。いふものなし。関羽。酒を飲。肉を食て。笑ひ談(かた)ること。故のごとく。碁を囲で。さらに動ことなかりしかバ。血ながれて盆に滿。華陀。その毒を。こと/゛\く刮り。能々藥をぬり。線(いと)をもつて。口を縫了りけれバ。関羽大に笑ひ。諸人に向て申けるハ。この臂。すでに伸屈(のべかゞむ)ること故のごとし。すこしも痛むことさらになし。華陀が曰く。某。医を業とすること。久しけれども。いまだ。将軍のごとくなる。人を見ず。乃ち。まことの天神なり。某すでに。療治を加る上ハ。百日を。すぎずして。旧のごとくなるべし。よく/\。慎ミ護て。怒の気を起し玉ふな。関羽かぎりなく喜 黄金百両をもつて。謝しけれバ。華陀が曰く。某。もとより。将軍ハ。天下の義士なることをしりて。こゝに来れり。なんぞ。この賜を受んやとて。卒に受ず。別に藥一貼を残し。後に。瘡の口をおふひ玉へといふて。相別れて去にけり。
"華陀関羽が臂を割て毒瘡を療ず"
通俗三国志之内 華佗骨刮関羽箭療治図 歌川国芳 1853年4月
2012年6月10日日曜日
絵本通俗三国志より「孫峻計殺諸葛恪」
絵本通俗三国志. 初,2-8編 / 池田東籬亭 校正 ; 葛飾戴斗 画図
七編八 孫峻計殺諸葛恪
去程に諸葛恪ハ。淮南より回(かへ)りて後。心神恍惚として。快からざりしかバ。中堂に出て坐したる所に。何(いづく)とも無。麻の衣を被(き)て。孝を掛たるもの。一人出来れり。諸葛恪。あやしんで。何ものぞ。いま/\しき体にて。此にきたれると叱けれバ。その人大におどろき。茫然としてあきれたる体なり。諸葛恪いかさま是ハ故あらんとて。士卒を召て拷問せしむるに。その人つげて申けるハ。某が父近比亡びたり。是故に僧を請じて。作善追薦の営をなさん為に。此所を寺なりとおもふて入けるに。案の外に太傅の府中なりと云けれバ。諸葛恪もつての外に怒て。門を守る軍士をめして。怪しき人や入たると問に。皆答て。某等一刻も離れず。数十人戈を持。鎗を?(とり)て。門を守といへども。曽(かつ)て左様の人を見ずといひけれバ。諸葛恪。弥々あやしミ。番衆を一人も残さず斬殺し。その夜心易からずして。臥たりしに。俄に正堂の内。おびたゝしく鳴響て。百千の霹靂(いかづち)の。おつるがごとくなりけれバ。自ら行て。これを見るに。正堂の梁(うつバり)中より折て二つとなり。陰風習々として何ともなく。哀ミ哭く音(かなしみなげくこえ)。耳に満て。今朝殺したる。麻の衣を被たる者。数十人の軍士を伴ひ来り。諸葛恪が頭を掴んで。命を求む。諸葛恪。?(たましひ 云+鬼)を喪つて。地の上に倒れけるが。良久(やゝひさしふ)して甦り。早天に起て。湯洗ひ口漱ぎけるに。其水はなハだ血腥かりければ。侍婢を叱つて。水をかへさせけるに。幾度かゆれども。その臭きこと旧のごとく。諸葛恪はなハだ怒り。立所に侍婢を斬て。衣服をき更(かへ)んとすれバ。是も血腥(ちなまぐさふ)して。数十度被更れども臭こと休ず心の内凋帳として居たる所に。忽ち天子勅使あり。太傅を招いて。酒宴をなし玉ハん。早々に参らるべしと云けれバ。諸葛恪。勅を?(うけたまハ 承)り。急ぎ車にのつて多の兵をしたがへ。中門まで出けれバ日比羪(やしな)ひ置たる黄なる犬あり。走り来て諸葛恪が裾を呀(くハ)へ。その?(こへ 士+巴)嚶々として哭く状をなしけれバ諸葛恪が曰く。此犬わが参内を。とゞむるならんとて。遂に引回(ひきかへ)して坐しけるが。暫くありて出けれバ。犬又走り来て引止む。是のごとくなること三度におよびけれバ扨ハこの犬われに戯るゝ也とて。兵に命じて逐打せ。車を推て出けれバ。俄に白き虹。地より起て。練絹を引がごとく。天に上り失にけり。諸葛恪左右の人にむかつて。此ハ不吉の兆にあらずやと問けれバ。皆答てこれ慶の吉兆なりと申す。已に車をはやめて禁門に入けれバ。武衛将軍孫峻。出迎へ地に拝して申けるハ。太傅の尊体。近此不安なるときゝ玉ひて。天子酒宴を設けて待玉ふと。云ければ互に礼了(おハり)て内に入けるに。御林の大将張約。車の前に来て。今日宮中の酒宴ハ。某さらに心得ず。はやく此より回玉へと。私語(さゝやき)けれバ。諸葛恪大にあやしんで。急に車を回しけるに。太常卿滕胤つと来り。車の前に拝伏して曰く。これハ何とて御回(おんかへり)はなハだしふして。天子に見(まミ)ゆることを得ず。滕胤が曰く太傅さきに。魏を攻玉ひて後卒に天子に見へ玉ハず。今日酒宴を設けて。國の大事を議し玉ふ。假令(たとひ)いかなる事ありとも。是まで来て回り玉ふことやある。勉て天子に見玉へ。諸葛恪已ことを得ず。相共に宮中に入けれバ。呉主孫亮出迎て曰く。朕久しく。太傅に逢ず。今日酒宴を設けて。一大事を議せんとほつす。諸葛恪が曰く。いかなる大事にて候ぞ。孫亮が曰く。しバらく坐せよ國家の政を議せんとて。孫峻に命じて。盃をとらせけれバ。諸葛恪心の内安からず臣が病ハまだ痊(いへ)ず。是故に酒を呑ずと云けれバ。孫峻が曰く太傅は常に薬酒を製して。飲玉ふと?(うけ 承)玉ハる。急ぎ人を馳てとり来らしめん。諸葛恪が曰く我病薬酒ハ苦しからず孫峻すなハち人を遣して。諸葛恪が。みづから造置たる。薬酒をとりよせけれバ。諸葛恪も。心を安んじて。是をのミ。已に數返におよびけるとき。孫亮事に託(よせ)て外に出けれバ孫峻殿(でん)の上より走り下り。衣裳を脱で。小具足ばかりになり。刀を提げて。おどり出。天子詔あり。逆賊を誅すとよバゝりけれバ。諸葛恪大におどろき。盃を弃(すて)て劔を抜とき。首ハ已に地に落たり。張約これを見て。刀を舞して討て蒐(かゝ)り。孫峻と戦て。張約。右の臂を斬落され。孫峻は左の指を斬れにけり。ときに武士ども走り来り。張約を寸々(すだ/\)に斬て肉泥としけれバ。朱恩かなハじとや思ひけん。外に走りけるを。追付て斬殺す。孫峻すなハち大音あげ。諸葛恪罪ありて。已に誅し了り。諸人罪なしとよバゝりけれバ。上下ミな安堵をなす。其後殿上の血をきよめ。再び呉主孫亮を請じて。慶の酒宴をなし。芦の蓆をもつて諸葛恪が屍を包ミ。篾(たけむしろ)をもつて上を束ね。車にのせて城南の門外石子崗の塚坑にぞ弃させける。諸葛恪が妻ハ。房(ねや)の内に居りけるに俄に心の愕くやうにして。恍惚としけるが。暫ありて。侍婢一人外より来り。遍身血に汚れたりけれバ。あやしんで何事ぞと問に。その女。目を怒し牙を咬み高踊挙(たかくおどりあがり)て。その頭 梁を撞。われハ乃ち諸葛恪なり今日奸賊孫峻に出抜れて。殺されたりとよバゝりしかバ。一家の老少。おどろき怕(おそ)れて、哭き号(さけぶ)?(こへ 士+巴)四方にきこゆ。不時に武士どもはせ来り。其一家をしばつて尽(こと/゛\)く市に斬る。ときに呉の大興二年 *1 冬十月なり。初め江南の小児の謡に。諸葛恪芦蓆單衣篾鈎落 于河相救成子閣 *2 といへり。昔し父の諸葛瑾常々諸葛恪がはなハだ聰明にして。才智尽く外へ著(あらハ)るゝを嘆き。此子。家を保の主にあらずといひしが。果して此のごとく。又魏の光禄大夫張緝が。司馬師に語て申けるハ。諸葛恪ハ。久しからずして必ず死せん。司馬師その故を問に 威震其主 功蓋一國 なんぞよく。久しからんと云けるが。尽く今日に應ぜり。呉主孫亮。これより。孫峻を丞相大将軍富春侯に封じて。内外の事を総督(すべたゞさせ)けれバ。権柄又一人に属しける。
*1 建興ニ年の誤りか。
*2 宋書に以下の記載があるようだ。
吳孫亮初,童謡曰:「籲汝恪,何若若,蘆葦單衣篾鈎絡,于何相求成子閣。」成子閣者,反語石子堈也。鈎落,鈎帶也。及諸葛恪死,果以葦席裹身,篾束其要,投之石子堈。後聽恪故吏收斂,求之此堈雲。孫亮初,公安有白鼉鳴。童謡曰:「白鼉鳴,龜背平,南郡城中可長生,守死不去義無成。」南郡城可長生者,有急,易以逃也。明年,諸葛恪敗,弟融鎮公安,亦見襲。融刮金印龜,服之而死。鼉有鱗介,甲兵之象。又曰白祥也。
"諸葛恪穢水を嗔(いかつ)て侍婢を斬る"
"諸葛恪が妻閨中に奇怪を見る"
2012年4月12日木曜日
水野年方先生 : [草稿] / 鏑木清方 [著]
水野年方先生 : [草稿] / 鏑木清方 [著] (現在非公開)
” さしむかひには、「先生」と呼びかけるけれど、人に話す場合には、「宅の師匠が……」さう云つたものだつた。あるひは今でもさう呼ぶ人があるかも知れないが、近頃では藝人の他あまり「師匠」といふ敬稱は用ひないやうだ。
水野年方先生は月岡芳年の弟子で、系統的には純然たる浮世絵師なのだから、先生と云ふよりは、師匠と云つた方が、ピツタリしさうなものだけれど、その態度、風采なり、気持なり、何としても師匠といつたふうではない、そのくせ神田育ちの素地(きぢ)は、夏の湯上りに派手な浴衣で、団扇を片手に、竹縁にあぐらでもかいてゐられると、常磐津を嗜み、河東も少しはいける先生の半面が、それは本名粂次郎の姿をちらと覗かせるふしがないのでもなかつたが、私が弟子入りした時分の、神田東紺屋町の住居を去つて、谷中清水町の新築した家へ移られた、明治二十九年あたりからは、すつかり江戸ツ子を清算して、横から見ても、竪から見ても、歴史画家、水野年方先生になりきつて了はれた。
先生が浮世絵出身でありながら、どうして歴史画に轉向されたか、それは先生の本来の趣味に依るのはいふまでもないけれど、内面的の藝術上の欲求の他に、當時の世間との外面的なひつかかりが、相當有力なものであつたことを閑却することは出来ない、
江戸時代の官学派、宮廷派としての、狩野、土佐、その以外の流派を學んだものは、均しく町絵師と呼ばれて、武士に對する町人と同じく、そこに身分の相違がやがて画格の高下とされてゐた。浮世絵といふのは、厳密にいつて流派とは云へないが、社会の風俗、遊里、劇場に材を求めた上からも、そのグループに属するものは、町絵師の中にも亦た一段格の下つたものとされて、それでも天明から寛政、享和、名工輩出した頃は実力に依つて気を吐いてゐたのだけれど、徳川幕府の威力の失墜と共に、江戸に生れたこの市民藝術も、没落の過程へと急ぐ運命に堕ちたのは已むを得ぬなりゆきであつた。
その中に獨り幕末から明治へかけて、巨匠月岡芳年が踏んばつてゐた。芳年の絵の上の教養は、今日の眼で見ればさう高いものとは云へないのだが、それは時代のせいで、若し芳年だけの腕を持つものが、もうニ三十年後れて出たらたいしたものだつたらう。絵はうまい。北斎を誉めてゐたといふがさうありさうなことで、北斎とも芳崖とも通ふところがある。芳年は好んで武者絵をかいた。遡ればこれはその師國芳の志をついだものである。されば年方先生の歴史画の絵の脈は、井草國芳に續いてゐるわけなのであるが、國芳はその同門で勢力を争つた五渡亭國貞の女絵に對して、己れを知つての武者絵かきとなつたといふ傳説は正しからう。芳年は性来の好みと師授と、もう一つは卑しめられた画格の向上、それはちやうど團十郎と黙阿彌が、史劇、當時のいはゆる活歴に向つたのと同じ途を踏んだもので、その傾向の好尚を代表する菊地容斎の「前賢故実」に學んだ跡も明らかである。
先生はその師のさうした傾向を殊に重んじて、画格の向上を殆んど一生の仕事とされたと云つてもよい程だつた。平常の業務とした挿画以外、自發的に作画される場合、展覧会への出品などは、十の中の八九までは歴史に取材され、忠臣、孝子を画くことを好まれた。その交友もだんだん硬い側の方へ移つて、その生活は、こらがいはゆる浮世絵の傳統に育くまれた人かと不思議に感ずるやうになつて行つた。そんなわけなので私などでも、先生の膝下に在つた頃は浮世絵といふのはどんなものか、又どんな人がうまいのか、その派に關する知識は何も知るところがなかつた。春信を知り、春章を知るやうになつたのは、全く先生の許を離れてから、それも久しい後のことである。
先生が完全に浮世絵から免れようとされた心もちはよく解る。それほど傳統を脱出しようとした先生が、ある時、幸堂得知翁から多数の黄表紙を借りて、當時塾生だつた故人池田輝方に冩させたこともある。私が清長を知つたのはその時で、輝方と二人で豊麗な筆致に一もニもなく傾倒した。
画格の向上は先生自身の生活の向上にも関係が深い。先生の父君は、野中吉五郎といつて左官の棟梁だつた。先生は前にも云つたやうに神田生れだけれど、父君は江戸つ子ではない。先生も若い自分はやはり父の職を業として左官の粂さんであつたのだ。
先生は色白のやさ形で、その自分の美男の俳優、市川權十郎によく似てゐた。子供の時から絵が好きで、十四の年に、根津にゐた芳年の内弟子になつたが、それは根津に廓のあつた明治十何年といふ時分、芳年は大松葉の幻太夫のところへ入り浸つて、家には米櫃に米もなく、借金取の言譯が先生の役といふ始末だつたが、先生は辛抱強い人だからさしてそれを苦にもせず、内弟子の勤めはこんなものと思つてゐたのだけれど、父君はカンカンに怒つて「俺の息子は絵を習ひにやつたんで、借金取の言譯にヤアやらねへ」といふので退げて了つて、仕事場へ連れて行き、家の職を継がせようとした。
後にその父君の話だつたが「色の白い粂次郎が、真夏の暑い日ざかり、炎天の下で真つ黒になつて働いてゐるのを見て、さる仕事場の旦那が、粂さんもあんなに好きな絵を止めさせられて、温和しい気質(きだて)に文句も云はず、ああやつて黙つて仕事をしてゐるいたいたしい姿をお前さんは何と見る、と云はれてしみじみ可愛さうになつて、又芳年先生へ詫びを入れて二度の弟子入りをさせましたよ」と折節の息子自慢に聴かせられたことがある。
神田の家といふのは塗籠づくりの二階屋で、始めは店に竈が並べてあつた。店の上下を除いては、奥は六畳の二階と、下が四五畳の畳が敷いてあるだけで、その奥二階が、先生の唯一の部屋で、画室でもあれば、寝室でもあり、内輪の客には客室でもあつた。
私の上つた時、先生は二十四五、御新造は年上であつた。奥さんと呼ぶ敬稱は未だその頃は行はれてゐない(明治二十四五年)。御新造を約めて「御新(ごしん)さん」と呼ぶ。先生の美男に比べて御新さんは決して美しい方ではなかつたが、伉儷睦ましく、何もかも先生の為めに、世間の付合ひ何やかや、御新さんが無口な先生を助けて切つて廻してゐられた。
四五人の小さい弟子達は、只さへ狭い六畳の間に、先生の机を正面に丁字形に机を並べて、版下の冩し物から習ひ初めるのであつた。先生の机は丈が低く、俎板のやうな形のもので、新聞や雑誌の挿画がこの机の上で作られた。縮緬の小裂れを集めた、御新さんが心づくしの肱突きに左の肱を托し、右の小指と無名指をつなぐ黒い布の指輪のやうなものを嵌めてかいてゐられる。私はこれも絵をかく上に必要なことなのかと思つて、家でこしらへてもらつて嵌めて行つたら、御新さんに「先生は小指がはねる癖があるので、ああやつておいでなのですよ」と云つて笑はれたことがある。左の小指の爪際が、筆の穂先をならすので、いつも黒光りに光つてゐるのが目についた。
先生が好きだつたのか、御新さんの方が好きだつたのか知らないが、いつも猫を飼つてゐられた。私の行く前から三毛の女猫がゐたが、先生の手ずさみに、ボール紙へ裃姿で、扇子を膝にかしこまつてゐる形がかいてあつて、首のところだけがくりぬいてある。そのくりぬいたところへ三毛の首を嵌め込む。猫はうるさいから首を振りながら、あとじさりをする。猫のからだはボールの蔭になつてちつとも見えないから、恰(まる)で猫が裃を着て動いてゐるとしか見えない。このいたづらは先生の創意かと思つてゐたら、芳年翁のところにも行はれてゐたといふことを後になつて聞いた。あるひはその又一時代前に、國芳あたりから始まつたのかも知れない。國芳は有名な猫好きだつたといふから……。
その時分御新さんはかういふことも云はれた。「先生はあんなに柔しくつて、皆さんにどんな失敗(しくぢり)があつても、小言一つ仰しやらないけれども、そんな時は御自分で、どんなにか、じつと辛抱してゐらつしやるか知れないんですよ。ほんたうはあれで酷い癇癪持ちなのを御自分でがまんしてゐらつしやるんで、それは體にわるいと思ふんですが、先生の辛抱強さつたら……。」
それはあながち私達への訓戒の方便とばかりは云へなかつた。まつたく先生は辛抱強い人であつた。どんなことでも耐え忍ぶ。當然なんとか自己の意見を主張するのが利益である場合にも、己れから口を開かうとはされなかつた。長上の無理にも決してさからふやうなことをされず、他から見ては歯がゆい程に、自分といふものを殺して居られた。
明治二十一ニ年頃のことだつたらう。未だ二十歳そこそこの先生は、やまと新聞社へ出勤して挿画をかいて居られたのであるが、尾張町にあつたその社の奥に、トタン家根の木片(こつぱ)普請の二階が先生の部屋に宛てられてゐた。四畳半の琉球畳が敷いてあつて、窓は小さく、土蔵と土蔵の間に建ててあるから風は通らず、日もささぬ。あまり暗いので天井にあかりとりの窓をあけたところが、そのあさがほから、日中はまともに日があたるので、夏の真晝などは、裸になつてゐても居たたまれぬといふのに、肌襦袢をキチンと着て、白地の絣の襟も寛げず、暑いとも云はずに仕事をされるので、他の社員たちから変人扱ひされたといふこともある。
神田時代の若かりし日の先生は、いつも明るく元氣であつたが、それは御新さんのすぐれて快活な氣性が、よく先生の氣もちを引き立ててゐたので、先生自身は決して陽氣な性分ではなかつた。
その頃、若湊といふ角力取がゐた。小結ぐらゐまで取つたかと思ふが、先生はこの力士が好きで、「若湊はさうたいして人氣もなく、大関になつたり、横綱は張れさうもないけれども、ぱつと人に騒がれて、その人氣が持ち堪へられずに幕から落ちるやうな力士ぢやない。画かきなんかも、一時花形と持ち上げられて、はでな盛りを見ようより、一生ぢみに目立たなくても、變らずに暮らせるやうにありたい。私(あたし)はそれで若湊が好きさ。」
二十五六の若盛りに、先生はさういふぢみな處世感を弟子に訓ゆる人であつた。
先生とは、陰と陽との組み合はせのやうであつた先夫人は、谷中へ移るとすぐ病没された。
先夫人に死別されてから、先生の家庭生活は甚だ恵まれざるものであつた。いざとなれば自分の意志を徹(とほ)すことに、意外に勇敢なところもあつたのだけれども、それはせつぱ詰まつた、ほんたうのどうにも抜きさしのならない、已むを得ない時のことで、さて押し切つて徹したあとの心のなやみ、それは心身を蝕ばむ苦しみとなつて己れを責める。先生の早世されたのも、まつたくかうした、あまりにも自分を抑壓されたことが因をなしたものであつたと云へる。亡くなつた御新さんの云はれたやうに、癇癪をじつと抑へる辛抱強さ、それはやつぱり先生の體の為めにはならなかつた。脳を疾んで逝かれた先生の終焉は寔に淋しく、追想は私の心を暗くさせる。
先生の画生活の中で一番緊張して居られたと思ふのは、先夫人の没後、谷中の家の移りたてに、明治三十年十月、日本画會の第一回展覧会へ、堀川御所の佐藤忠信を画かれた時分で、それまでは甞つて公開の展觀へ出品されたこともなかつたのを、夫人との別れ、挿画画家からの轉身、住居の変化、あれも、これも、先生の一生に豁然と時代を分けた機會にあたつて、まだ少年だつた池田輝方君に侍(かしづ)かれて、新しい画生活へのかしまだち。その頃の先生は、その生涯を通じて、画道の精進に最も潔く見えた時であつた。
「忠信」の絵はやはり先生の代表的な作であらう。その絵は 御物となつてゐて再び接する機を有たなかつたが、先年東京朝日の「明治大正名作展」で久しぶりにこの作を見て、いろいろとその當時のことが偲ばれたのであつた。
谷中清水町は大河内子爵家の邸内で、動物園のうしろの暗闇坂を境に、狐狸の巣窟のやうな密林で、物凄い古池があり、その池は一部分が今でも残つてゐるさうであるが、先生が新築をされる時分は、大きな椎の古木が池に蔽ひかぶさつて、あたりは竹藪が多かつた。
先生の画室は二階の六畳で、東は肱かけ窓で、上野の森を仰ぎ、南は縁側があつて掃き出しになつて居り、遠くは本郷臺が見晴らせるし、近くは今云つた古池を眼の下に見る、町家續きの庇間(ひあはひ)で圍まれた神田から移つては、都會の中とは思へぬ閑静さであつた。
併し先生は明るい光線を好まれなかつた。東の窓はいつも枝簾が下してあつたし、あたりの廣濶としたところに地を卜しながら、画室は採光に極めて不充分であつた。
「忠信」の絵は、画室の隣の八畳との隔ての襖を外してかいて居られた。忠信の忠義、それが先生のこの作の画因には相違ないのだけれど、先生の興味の中心は、脱ぎ棄てた紺糸縅の腹巻にあつたと云つてもよかつたらう。その腹巻は先生愛蔵の品で、先生はかうした武具甲冑のたぐひになみなみならぬ愛着を有つてゐられた。
何一つ道樂らしいもののない先生には、この武具の蒐集が一ばん樂しみであつたらしい。京橋の彌左衛門町にあつた武具を賣る店へは、紺屋町時代には私も使ひに行つたことがある。
松岡映丘君のまだ學生だつた時分、この「忠信」の腹巻のザクリと置いてあるのにひどく惹きつけられて、何度も見に行つたことがあると、これも名作展で、その絵の前に立つての昔ばなしであつた。”
「佐藤忠信参館之図 水野年方 1898年」 武者絵の精紳(こころ) その5:イザ!
※早稲田大学図書館古典籍総合データベースで見つけて文字起こししたもの。残念ながら現在は非公開。
※最近になって「銀砂子」の原稿であると知った。
※図書館送信資料なので内容を確認。ほぼ原稿の通りだが、数カ所のルビの指定は採用されていないし、原稿では略字である「画」などは「畫」に改められている。文字起こしの際のミスもあるかと思うので、引用する際は御注意ください。
※「素地(きぢ)」、「気質(きだて)」、「失敗(しくぢり)」、「木片(こつぱ)」、「徹(とほ)す」、などで清方の言葉遣いを、「私(あたし)」で弟子に話しかける時の年方の自称を知ることができる。
※そんなわけで物言いがつかない限りは公開しておきます。
※鏑木清方は1972年(昭和47年)、93歳没。
” さしむかひには、「先生」と呼びかけるけれど、人に話す場合には、「宅の師匠が……」さう云つたものだつた。あるひは今でもさう呼ぶ人があるかも知れないが、近頃では藝人の他あまり「師匠」といふ敬稱は用ひないやうだ。
水野年方先生は月岡芳年の弟子で、系統的には純然たる浮世絵師なのだから、先生と云ふよりは、師匠と云つた方が、ピツタリしさうなものだけれど、その態度、風采なり、気持なり、何としても師匠といつたふうではない、そのくせ神田育ちの素地(きぢ)は、夏の湯上りに派手な浴衣で、団扇を片手に、竹縁にあぐらでもかいてゐられると、常磐津を嗜み、河東も少しはいける先生の半面が、それは本名粂次郎の姿をちらと覗かせるふしがないのでもなかつたが、私が弟子入りした時分の、神田東紺屋町の住居を去つて、谷中清水町の新築した家へ移られた、明治二十九年あたりからは、すつかり江戸ツ子を清算して、横から見ても、竪から見ても、歴史画家、水野年方先生になりきつて了はれた。
先生が浮世絵出身でありながら、どうして歴史画に轉向されたか、それは先生の本来の趣味に依るのはいふまでもないけれど、内面的の藝術上の欲求の他に、當時の世間との外面的なひつかかりが、相當有力なものであつたことを閑却することは出来ない、
江戸時代の官学派、宮廷派としての、狩野、土佐、その以外の流派を學んだものは、均しく町絵師と呼ばれて、武士に對する町人と同じく、そこに身分の相違がやがて画格の高下とされてゐた。浮世絵といふのは、厳密にいつて流派とは云へないが、社会の風俗、遊里、劇場に材を求めた上からも、そのグループに属するものは、町絵師の中にも亦た一段格の下つたものとされて、それでも天明から寛政、享和、名工輩出した頃は実力に依つて気を吐いてゐたのだけれど、徳川幕府の威力の失墜と共に、江戸に生れたこの市民藝術も、没落の過程へと急ぐ運命に堕ちたのは已むを得ぬなりゆきであつた。
その中に獨り幕末から明治へかけて、巨匠月岡芳年が踏んばつてゐた。芳年の絵の上の教養は、今日の眼で見ればさう高いものとは云へないのだが、それは時代のせいで、若し芳年だけの腕を持つものが、もうニ三十年後れて出たらたいしたものだつたらう。絵はうまい。北斎を誉めてゐたといふがさうありさうなことで、北斎とも芳崖とも通ふところがある。芳年は好んで武者絵をかいた。遡ればこれはその師國芳の志をついだものである。されば年方先生の歴史画の絵の脈は、井草國芳に續いてゐるわけなのであるが、國芳はその同門で勢力を争つた五渡亭國貞の女絵に對して、己れを知つての武者絵かきとなつたといふ傳説は正しからう。芳年は性来の好みと師授と、もう一つは卑しめられた画格の向上、それはちやうど團十郎と黙阿彌が、史劇、當時のいはゆる活歴に向つたのと同じ途を踏んだもので、その傾向の好尚を代表する菊地容斎の「前賢故実」に學んだ跡も明らかである。
先生はその師のさうした傾向を殊に重んじて、画格の向上を殆んど一生の仕事とされたと云つてもよい程だつた。平常の業務とした挿画以外、自發的に作画される場合、展覧会への出品などは、十の中の八九までは歴史に取材され、忠臣、孝子を画くことを好まれた。その交友もだんだん硬い側の方へ移つて、その生活は、こらがいはゆる浮世絵の傳統に育くまれた人かと不思議に感ずるやうになつて行つた。そんなわけなので私などでも、先生の膝下に在つた頃は浮世絵といふのはどんなものか、又どんな人がうまいのか、その派に關する知識は何も知るところがなかつた。春信を知り、春章を知るやうになつたのは、全く先生の許を離れてから、それも久しい後のことである。
先生が完全に浮世絵から免れようとされた心もちはよく解る。それほど傳統を脱出しようとした先生が、ある時、幸堂得知翁から多数の黄表紙を借りて、當時塾生だつた故人池田輝方に冩させたこともある。私が清長を知つたのはその時で、輝方と二人で豊麗な筆致に一もニもなく傾倒した。
画格の向上は先生自身の生活の向上にも関係が深い。先生の父君は、野中吉五郎といつて左官の棟梁だつた。先生は前にも云つたやうに神田生れだけれど、父君は江戸つ子ではない。先生も若い自分はやはり父の職を業として左官の粂さんであつたのだ。
先生は色白のやさ形で、その自分の美男の俳優、市川權十郎によく似てゐた。子供の時から絵が好きで、十四の年に、根津にゐた芳年の内弟子になつたが、それは根津に廓のあつた明治十何年といふ時分、芳年は大松葉の幻太夫のところへ入り浸つて、家には米櫃に米もなく、借金取の言譯が先生の役といふ始末だつたが、先生は辛抱強い人だからさしてそれを苦にもせず、内弟子の勤めはこんなものと思つてゐたのだけれど、父君はカンカンに怒つて「俺の息子は絵を習ひにやつたんで、借金取の言譯にヤアやらねへ」といふので退げて了つて、仕事場へ連れて行き、家の職を継がせようとした。
後にその父君の話だつたが「色の白い粂次郎が、真夏の暑い日ざかり、炎天の下で真つ黒になつて働いてゐるのを見て、さる仕事場の旦那が、粂さんもあんなに好きな絵を止めさせられて、温和しい気質(きだて)に文句も云はず、ああやつて黙つて仕事をしてゐるいたいたしい姿をお前さんは何と見る、と云はれてしみじみ可愛さうになつて、又芳年先生へ詫びを入れて二度の弟子入りをさせましたよ」と折節の息子自慢に聴かせられたことがある。
神田の家といふのは塗籠づくりの二階屋で、始めは店に竈が並べてあつた。店の上下を除いては、奥は六畳の二階と、下が四五畳の畳が敷いてあるだけで、その奥二階が、先生の唯一の部屋で、画室でもあれば、寝室でもあり、内輪の客には客室でもあつた。
私の上つた時、先生は二十四五、御新造は年上であつた。奥さんと呼ぶ敬稱は未だその頃は行はれてゐない(明治二十四五年)。御新造を約めて「御新(ごしん)さん」と呼ぶ。先生の美男に比べて御新さんは決して美しい方ではなかつたが、伉儷睦ましく、何もかも先生の為めに、世間の付合ひ何やかや、御新さんが無口な先生を助けて切つて廻してゐられた。
四五人の小さい弟子達は、只さへ狭い六畳の間に、先生の机を正面に丁字形に机を並べて、版下の冩し物から習ひ初めるのであつた。先生の机は丈が低く、俎板のやうな形のもので、新聞や雑誌の挿画がこの机の上で作られた。縮緬の小裂れを集めた、御新さんが心づくしの肱突きに左の肱を托し、右の小指と無名指をつなぐ黒い布の指輪のやうなものを嵌めてかいてゐられる。私はこれも絵をかく上に必要なことなのかと思つて、家でこしらへてもらつて嵌めて行つたら、御新さんに「先生は小指がはねる癖があるので、ああやつておいでなのですよ」と云つて笑はれたことがある。左の小指の爪際が、筆の穂先をならすので、いつも黒光りに光つてゐるのが目についた。
先生が好きだつたのか、御新さんの方が好きだつたのか知らないが、いつも猫を飼つてゐられた。私の行く前から三毛の女猫がゐたが、先生の手ずさみに、ボール紙へ裃姿で、扇子を膝にかしこまつてゐる形がかいてあつて、首のところだけがくりぬいてある。そのくりぬいたところへ三毛の首を嵌め込む。猫はうるさいから首を振りながら、あとじさりをする。猫のからだはボールの蔭になつてちつとも見えないから、恰(まる)で猫が裃を着て動いてゐるとしか見えない。このいたづらは先生の創意かと思つてゐたら、芳年翁のところにも行はれてゐたといふことを後になつて聞いた。あるひはその又一時代前に、國芳あたりから始まつたのかも知れない。國芳は有名な猫好きだつたといふから……。
その時分御新さんはかういふことも云はれた。「先生はあんなに柔しくつて、皆さんにどんな失敗(しくぢり)があつても、小言一つ仰しやらないけれども、そんな時は御自分で、どんなにか、じつと辛抱してゐらつしやるか知れないんですよ。ほんたうはあれで酷い癇癪持ちなのを御自分でがまんしてゐらつしやるんで、それは體にわるいと思ふんですが、先生の辛抱強さつたら……。」
それはあながち私達への訓戒の方便とばかりは云へなかつた。まつたく先生は辛抱強い人であつた。どんなことでも耐え忍ぶ。當然なんとか自己の意見を主張するのが利益である場合にも、己れから口を開かうとはされなかつた。長上の無理にも決してさからふやうなことをされず、他から見ては歯がゆい程に、自分といふものを殺して居られた。
明治二十一ニ年頃のことだつたらう。未だ二十歳そこそこの先生は、やまと新聞社へ出勤して挿画をかいて居られたのであるが、尾張町にあつたその社の奥に、トタン家根の木片(こつぱ)普請の二階が先生の部屋に宛てられてゐた。四畳半の琉球畳が敷いてあつて、窓は小さく、土蔵と土蔵の間に建ててあるから風は通らず、日もささぬ。あまり暗いので天井にあかりとりの窓をあけたところが、そのあさがほから、日中はまともに日があたるので、夏の真晝などは、裸になつてゐても居たたまれぬといふのに、肌襦袢をキチンと着て、白地の絣の襟も寛げず、暑いとも云はずに仕事をされるので、他の社員たちから変人扱ひされたといふこともある。
神田時代の若かりし日の先生は、いつも明るく元氣であつたが、それは御新さんのすぐれて快活な氣性が、よく先生の氣もちを引き立ててゐたので、先生自身は決して陽氣な性分ではなかつた。
その頃、若湊といふ角力取がゐた。小結ぐらゐまで取つたかと思ふが、先生はこの力士が好きで、「若湊はさうたいして人氣もなく、大関になつたり、横綱は張れさうもないけれども、ぱつと人に騒がれて、その人氣が持ち堪へられずに幕から落ちるやうな力士ぢやない。画かきなんかも、一時花形と持ち上げられて、はでな盛りを見ようより、一生ぢみに目立たなくても、變らずに暮らせるやうにありたい。私(あたし)はそれで若湊が好きさ。」
二十五六の若盛りに、先生はさういふぢみな處世感を弟子に訓ゆる人であつた。
先生とは、陰と陽との組み合はせのやうであつた先夫人は、谷中へ移るとすぐ病没された。
先夫人に死別されてから、先生の家庭生活は甚だ恵まれざるものであつた。いざとなれば自分の意志を徹(とほ)すことに、意外に勇敢なところもあつたのだけれども、それはせつぱ詰まつた、ほんたうのどうにも抜きさしのならない、已むを得ない時のことで、さて押し切つて徹したあとの心のなやみ、それは心身を蝕ばむ苦しみとなつて己れを責める。先生の早世されたのも、まつたくかうした、あまりにも自分を抑壓されたことが因をなしたものであつたと云へる。亡くなつた御新さんの云はれたやうに、癇癪をじつと抑へる辛抱強さ、それはやつぱり先生の體の為めにはならなかつた。脳を疾んで逝かれた先生の終焉は寔に淋しく、追想は私の心を暗くさせる。
先生の画生活の中で一番緊張して居られたと思ふのは、先夫人の没後、谷中の家の移りたてに、明治三十年十月、日本画會の第一回展覧会へ、堀川御所の佐藤忠信を画かれた時分で、それまでは甞つて公開の展觀へ出品されたこともなかつたのを、夫人との別れ、挿画画家からの轉身、住居の変化、あれも、これも、先生の一生に豁然と時代を分けた機會にあたつて、まだ少年だつた池田輝方君に侍(かしづ)かれて、新しい画生活へのかしまだち。その頃の先生は、その生涯を通じて、画道の精進に最も潔く見えた時であつた。
「忠信」の絵はやはり先生の代表的な作であらう。その絵は 御物となつてゐて再び接する機を有たなかつたが、先年東京朝日の「明治大正名作展」で久しぶりにこの作を見て、いろいろとその當時のことが偲ばれたのであつた。
谷中清水町は大河内子爵家の邸内で、動物園のうしろの暗闇坂を境に、狐狸の巣窟のやうな密林で、物凄い古池があり、その池は一部分が今でも残つてゐるさうであるが、先生が新築をされる時分は、大きな椎の古木が池に蔽ひかぶさつて、あたりは竹藪が多かつた。
先生の画室は二階の六畳で、東は肱かけ窓で、上野の森を仰ぎ、南は縁側があつて掃き出しになつて居り、遠くは本郷臺が見晴らせるし、近くは今云つた古池を眼の下に見る、町家續きの庇間(ひあはひ)で圍まれた神田から移つては、都會の中とは思へぬ閑静さであつた。
併し先生は明るい光線を好まれなかつた。東の窓はいつも枝簾が下してあつたし、あたりの廣濶としたところに地を卜しながら、画室は採光に極めて不充分であつた。
「忠信」の絵は、画室の隣の八畳との隔ての襖を外してかいて居られた。忠信の忠義、それが先生のこの作の画因には相違ないのだけれど、先生の興味の中心は、脱ぎ棄てた紺糸縅の腹巻にあつたと云つてもよかつたらう。その腹巻は先生愛蔵の品で、先生はかうした武具甲冑のたぐひになみなみならぬ愛着を有つてゐられた。
何一つ道樂らしいもののない先生には、この武具の蒐集が一ばん樂しみであつたらしい。京橋の彌左衛門町にあつた武具を賣る店へは、紺屋町時代には私も使ひに行つたことがある。
松岡映丘君のまだ學生だつた時分、この「忠信」の腹巻のザクリと置いてあるのにひどく惹きつけられて、何度も見に行つたことがあると、これも名作展で、その絵の前に立つての昔ばなしであつた。”
「佐藤忠信参館之図 水野年方 1898年」 武者絵の精紳(こころ) その5:イザ!
※早稲田大学図書館古典籍総合データベースで見つけて文字起こししたもの。残念ながら現在は非公開。
※最近になって「銀砂子」の原稿であると知った。
※図書館送信資料なので内容を確認。ほぼ原稿の通りだが、数カ所のルビの指定は採用されていないし、原稿では略字である「画」などは「畫」に改められている。文字起こしの際のミスもあるかと思うので、引用する際は御注意ください。
※「素地(きぢ)」、「気質(きだて)」、「失敗(しくぢり)」、「木片(こつぱ)」、「徹(とほ)す」、などで清方の言葉遣いを、「私(あたし)」で弟子に話しかける時の年方の自称を知ることができる。
※そんなわけで物言いがつかない限りは公開しておきます。
※鏑木清方は1972年(昭和47年)、93歳没。
2012年2月28日火曜日
美術品 心癒やせず…
美術品 心癒やせず… 誤解で貸し渋り続く 「福島は安全」懸命に訴え : 福島民報 2012年2月16日23面
" 福島市の県立美術館で六月に始まる「ベン・シャーン展」と、郡山市立美術館で昨年秋に開催した「花の画家ルドゥーテ『美花選』展」は一部の作品貸し出しが拒否された。所蔵する美術館側は拒否の理由として、放射線による作品の劣化や変質、損傷、学芸員への影響が懸念されることなどを挙げたという。
県立美術館の空間放射線量は一階の企画展示室が毎時0.06~0.08マイクロシーベルト程度。学芸員らは測定結果を伝え、作品管理にも万全を期すことなど安全性を訴えたが米国側の姿勢は変わらなかった。"
" 一方、いわき市立美術館は昨年九月に北斎展を計画していたが、原発事故のためハワイのホノルル美術館から代表作を借りることが不可能となった。
米国政府が原発から80キロ圏外に自国民を退避させる勧告を出したためだ。勧告は昨年十一月に解除されホノルル美術館もいわき側の熱意に応えてようやく作品貸し出しを決定した。今年七月二十一日から開催できることになったが、学芸員は同行せず作品だけを送り出す。"
" いわき市立美術館は余震の影響も懸念する。工芸品は損傷の恐れがあるとして国内からも貸し出しを断られるケースがあるという。同美術館によると、余震の影響で世界最大の保険会社が日本への作品貸し出しについて損害保険の申請を受理しないことを決めた。措置が続けば作品の借り入れが、さらに困難になるという。"
ルーブルなど被災地支援の動き
" 海外の作品所有者全てが貸し出しを拒んでいるわけではない。
県立美術館で昨年十月末から開いた「ギッター・コレクション展」には、米ニューオリンズの眼科医が収集した約百十点が並んだ。所有者は当初、放射線の影響に不安を訴えたが、被災した本県を思いやり、予定通りの開催となった。
また、フランスのルーブル美術館は七月、県立美術館で作品展を開催する。本県をはじめ、宮城、岩手の被災三県との連携を示す。"
" 福島市の県立美術館で六月に始まる「ベン・シャーン展」と、郡山市立美術館で昨年秋に開催した「花の画家ルドゥーテ『美花選』展」は一部の作品貸し出しが拒否された。所蔵する美術館側は拒否の理由として、放射線による作品の劣化や変質、損傷、学芸員への影響が懸念されることなどを挙げたという。
県立美術館の空間放射線量は一階の企画展示室が毎時0.06~0.08マイクロシーベルト程度。学芸員らは測定結果を伝え、作品管理にも万全を期すことなど安全性を訴えたが米国側の姿勢は変わらなかった。"
" 一方、いわき市立美術館は昨年九月に北斎展を計画していたが、原発事故のためハワイのホノルル美術館から代表作を借りることが不可能となった。
米国政府が原発から80キロ圏外に自国民を退避させる勧告を出したためだ。勧告は昨年十一月に解除されホノルル美術館もいわき側の熱意に応えてようやく作品貸し出しを決定した。今年七月二十一日から開催できることになったが、学芸員は同行せず作品だけを送り出す。"
" いわき市立美術館は余震の影響も懸念する。工芸品は損傷の恐れがあるとして国内からも貸し出しを断られるケースがあるという。同美術館によると、余震の影響で世界最大の保険会社が日本への作品貸し出しについて損害保険の申請を受理しないことを決めた。措置が続けば作品の借り入れが、さらに困難になるという。"
ルーブルなど被災地支援の動き
" 海外の作品所有者全てが貸し出しを拒んでいるわけではない。
県立美術館で昨年十月末から開いた「ギッター・コレクション展」には、米ニューオリンズの眼科医が収集した約百十点が並んだ。所有者は当初、放射線の影響に不安を訴えたが、被災した本県を思いやり、予定通りの開催となった。
また、フランスのルーブル美術館は七月、県立美術館で作品展を開催する。本県をはじめ、宮城、岩手の被災三県との連携を示す。"
2012年1月24日火曜日
甲冑着用備双六 歌川芳員
国立国会図書館のデジタル化資料 - 甲冑着用備双六
甲冑着用備双六 歌川芳員 1858年
振出し
褌 ふんどし 「なるほど/\こうくびへかけれバおちるきづけへなしだ しかしどこかちつときうくつなやうだ」
襯衣 したぎ 「あせぢばんがもつてこいだ ゆきがあんまりミぢッけへがこれでいひかしら これでよし/\」
衣帯 おび 「これもやつぱりもめんにかぎる 〆あんばいがしごく めう/\」
小袴 こばかま 「あんまりかたく〆てハせつねへ/\ はかまをはいたですこしまがよくなつた これでハちつといくさじミてきた」
足袋 たび 「かハたびハいゝが足がほてつてこまります もめんのさしたびがよさそうでござります しかしくつながハできあひにハあるめへねェ」
脚半 きやはん 「きやはんハすねあてのあいだにはくのだ これもゆるいほうがあんばいよしだ かたいとあしがいたミいります」
草鞋 わらんじ 「わらじハめうがあさがいゝとおしへにまかせてはくものゝやつぱりわらがごく上々 そめをくひもにすれハよし/\」
腨当 すねあて 「むすひめハしつかりと しめやうハゆるくするがいひ コレサあんまりゆるすぎてハいかぬ/\」
佩楯 はいだて 「はいたてとハしりのおもいやつにハできねへことだ へんじしてもすぐにハたてねへやつサ」
决拾 ゆがけ 「ゆがけハいづれたてわく?こざくら ちとまつかハににていやす しかしほうさうならゆかけハ上々」
臂罩 こて 「こて/\とハたんとあること こてハさくわんのだうぐ コレハからだへこてへるぜェ」
脇曳 わきびき 「れんしやくでせおふたやうだ おもしろくもねへしやれだ」
胴丸 どうまる 「きなれないとむづかしいものだ いそぎのときにハどうまるものか」
表帯 うハおび 「うハおびをしめてやう/\かたまつた これからまだ/\いくいろもある いそぐときにハまにあハねへ」
肩罩 そで 「そでじころをつけねへうちハぞうべうじミてきがきかねへ これでよし/\」
帯兩刀 りやうたうをたいす 「これでしつかりきまりました なるほどたいとうきまりがいゝ/\」
喉輪 のどわ 「のどハゝよだれかけとまぎらハしいが やくめ?のうちならしかたがねへ つけろ/\」
纒顱巻 はちまきをまとふ 「はちまきをあんまりかたくするとかへつてづつうはちまちた」
蒙頬當 ほうあてをかぶる 「しやんとまつすぐにかぶらないと ほうあてちがひだ」
戴頭盔 かぶとをいたゞく 「かつてかぶとのをゝしめろだが まづまへいわいに一ツしめませう しやん/\/\ おめてたうござります?」
背旗 さしもの 「さしものたけきものゝふがトしやれたらどうだろう」
挿鎗挟 やりばさミをさす 「やり/\ごくろうトいハれそうだ」
楯板 たてのいた 「のぞきハ四文だ おすな/\」
竹束 たけたば 「七月六日にうれのこつたやつだ チトきまりがわりい」
銕炮 てつばう 「てつはうハこのすごろくとおなしこと きつとあたると人のいふらん なんといゝうただろう」
一番鎗 いちばんやり 「ちかごろ一ばんやりもせんだいばでつかいますから おほきにやすッぼくなりやした」
母衣 ほろ 「ほろをふくらがそうとおもつて かぜにむかひ一生けんめいかけだしたら ついてきぢんをいきすぎました めんぼくない/\ しなびました」
狼煙 のろし
一番乗 いちばんのり 「うぢ川のせんぢん さゝきの四郎たかつなとなのりたくなるやつさ ついおのれのなをわすれてしまつた なんとかいつたつけ」
弓箭 ゆミや
熊手 くまで 「よくばつてゐるやうだが かきこむにハいゝだうぐだ」
一騎 いつき
長刀 なぎなた 「あぶねへぞ/\よるな/\さわるといれるぞ ありや/\/\」
首帳 くびちやう 「まことひまでござります めでたい/\ちをぬらずしていくさハかち/\ぢきまくがしまつたハエ」
軍師 ぐんし 「こうしてゐる形ハうらないしやのやうだが これでもこんどハたれが上ルこのつぎハたれが上リといふことハそらんじておりますハ」
革鎧 かハぐそく 「かハぐそくハきがきかねヘやうだが きこなした形がいゝからかるいハ/\かろきミにこそたのミハあれと わかにもありやす」
大鎧 おほよろゐ 「大よろゐとハ チトおもひつきがわりい やれ/\おもい/\」
驛路鈴 えきろのすゞ 「たかまがはらにかミとゞまりますトいふやうだ」
軍配 ぐんばい 「にィしつるかめ/\ひがし宝来山/\ ヨ のこつた/\/\」
陣羽織
嗾?配 ざいはい 「かゝれ/\ありやァ/\/\ト いへ/\」
上リ 勝戦歸陣
甲冑着用備双六 歌川芳員 1858年
振出し
褌 ふんどし 「なるほど/\こうくびへかけれバおちるきづけへなしだ しかしどこかちつときうくつなやうだ」
襯衣 したぎ 「あせぢばんがもつてこいだ ゆきがあんまりミぢッけへがこれでいひかしら これでよし/\」
衣帯 おび 「これもやつぱりもめんにかぎる 〆あんばいがしごく めう/\」
小袴 こばかま 「あんまりかたく〆てハせつねへ/\ はかまをはいたですこしまがよくなつた これでハちつといくさじミてきた」
足袋 たび 「かハたびハいゝが足がほてつてこまります もめんのさしたびがよさそうでござります しかしくつながハできあひにハあるめへねェ」
脚半 きやはん 「きやはんハすねあてのあいだにはくのだ これもゆるいほうがあんばいよしだ かたいとあしがいたミいります」
草鞋 わらんじ 「わらじハめうがあさがいゝとおしへにまかせてはくものゝやつぱりわらがごく上々 そめをくひもにすれハよし/\」
腨当 すねあて 「むすひめハしつかりと しめやうハゆるくするがいひ コレサあんまりゆるすぎてハいかぬ/\」
佩楯 はいだて 「はいたてとハしりのおもいやつにハできねへことだ へんじしてもすぐにハたてねへやつサ」
决拾 ゆがけ 「ゆがけハいづれたてわく?こざくら ちとまつかハににていやす しかしほうさうならゆかけハ上々」
臂罩 こて 「こて/\とハたんとあること こてハさくわんのだうぐ コレハからだへこてへるぜェ」
脇曳 わきびき 「れんしやくでせおふたやうだ おもしろくもねへしやれだ」
胴丸 どうまる 「きなれないとむづかしいものだ いそぎのときにハどうまるものか」
表帯 うハおび 「うハおびをしめてやう/\かたまつた これからまだ/\いくいろもある いそぐときにハまにあハねへ」
肩罩 そで 「そでじころをつけねへうちハぞうべうじミてきがきかねへ これでよし/\」
帯兩刀 りやうたうをたいす 「これでしつかりきまりました なるほどたいとうきまりがいゝ/\」
喉輪 のどわ 「のどハゝよだれかけとまぎらハしいが やくめ?のうちならしかたがねへ つけろ/\」
纒顱巻 はちまきをまとふ 「はちまきをあんまりかたくするとかへつてづつうはちまちた」
蒙頬當 ほうあてをかぶる 「しやんとまつすぐにかぶらないと ほうあてちがひだ」
戴頭盔 かぶとをいたゞく 「かつてかぶとのをゝしめろだが まづまへいわいに一ツしめませう しやん/\/\ おめてたうござります?」
背旗 さしもの 「さしものたけきものゝふがトしやれたらどうだろう」
挿鎗挟 やりばさミをさす 「やり/\ごくろうトいハれそうだ」
楯板 たてのいた 「のぞきハ四文だ おすな/\」
竹束 たけたば 「七月六日にうれのこつたやつだ チトきまりがわりい」
銕炮 てつばう 「てつはうハこのすごろくとおなしこと きつとあたると人のいふらん なんといゝうただろう」
一番鎗 いちばんやり 「ちかごろ一ばんやりもせんだいばでつかいますから おほきにやすッぼくなりやした」
母衣 ほろ 「ほろをふくらがそうとおもつて かぜにむかひ一生けんめいかけだしたら ついてきぢんをいきすぎました めんぼくない/\ しなびました」
狼煙 のろし
一番乗 いちばんのり 「うぢ川のせんぢん さゝきの四郎たかつなとなのりたくなるやつさ ついおのれのなをわすれてしまつた なんとかいつたつけ」
弓箭 ゆミや
熊手 くまで 「よくばつてゐるやうだが かきこむにハいゝだうぐだ」
一騎 いつき
長刀 なぎなた 「あぶねへぞ/\よるな/\さわるといれるぞ ありや/\/\」
首帳 くびちやう 「まことひまでござります めでたい/\ちをぬらずしていくさハかち/\ぢきまくがしまつたハエ」
軍師 ぐんし 「こうしてゐる形ハうらないしやのやうだが これでもこんどハたれが上ルこのつぎハたれが上リといふことハそらんじておりますハ」
革鎧 かハぐそく 「かハぐそくハきがきかねヘやうだが きこなした形がいゝからかるいハ/\かろきミにこそたのミハあれと わかにもありやす」
大鎧 おほよろゐ 「大よろゐとハ チトおもひつきがわりい やれ/\おもい/\」
驛路鈴 えきろのすゞ 「たかまがはらにかミとゞまりますトいふやうだ」
軍配 ぐんばい 「にィしつるかめ/\ひがし宝来山/\ ヨ のこつた/\/\」
陣羽織
嗾?配 ざいはい 「かゝれ/\ありやァ/\/\ト いへ/\」
上リ 勝戦歸陣
2011年12月18日日曜日
鼠よけの猫 歌川国芳
鼠よけの猫 歌川国芳 1830年頃
"此圖ハ猫の絵に妙を得し一勇齋の寫真(しやううつし)の圖にして これを家内に張おく時にハ鼠もこれをミれバおのづとおそれをなし次第にすくなくなりて出る事なし たとへ出るともいたづらをけつしてせず 誠に妙なる圖なり 福川堂 記"
※郡山市立美術館での国芳展を前後期の二度見に行くことができた。前期にこの絵があり、うれしくて詞書を会場でメモした。帰ってググってみれば人気の絵だから、アチコチに文字おこしをしている人がいる。まあ好みの表記法があるので記念に書きつけておく。
誠忠義士傳 間瀬宙太夫正明 歌川国芳
No. 44 Mase Chudayu Masaaki / Seichu gishi den (Biographies of Loyal and Righteous Samurai) / Kuniyoshi
誠忠義士傳 間瀬宙太夫正明 歌川国芳 1847年
“正明ハ三ツ橋浄定と變名して格子町に借家なし医師をなす 子息孫九郎ハ小市郎と改名し西國より鎮守再興勧化の事 領主へねがひに出たる者の由にて義徒三四人浄定方へ同居なし居たり 十二月十四日討入におよび宙太夫行年六十二歳といへども壮健なる事 血気隆(さかん)なる者に少も劣ず二番手に列して玄関より矢声を係て切入たり 敵方森伴左エ門と渡り合双方勇猛を争ひ勇を震つて血戦す 原三村是を見て森の太刀先するどけれバ老人間瀬を討せじと横合より討てかゝれバ勇気燦然として宙太夫ハ少もひるまず 爰構ハずと奥へ/\ と呼ハりて猛虎の荒たるごとく鍔元より火花をちらし戦ひを譲らず一ト駻(はね)はねて討込太刀狙ひ違ハず森の眉間鉢巻係て切こめバ刀ハ国俊手練の達人眞二ツにぞ切割たり 森ハ其儘叫もあへず血煙立て死たりける宙太夫ハ手始よしと血刀振て奥を目掛馳入バ小守源次と名乗かけ太刀真向に立塞り戸口を入れじと支たり 面倒なりと打あハせ上段下段と切結ぶ 小守も聞ゆる強勇なれども敵しがたくやのがれんと跡へひかんとする所を横に拂へバ受損じ右のあばらの下より上へ二ツに切て捨さりしハ実に目覚しき老人の働きなりと感じけり 応需 一筆葊 誌”
2011年9月15日木曜日
教導立志基 三十一 富田信高 月岡芳年
教導立志基 三十一 富田信高 月岡芳年 1885年12月
"富田信高 安濃津の城を守る 毛利吉川等之を攻め兵を進めて入らんとす 信高乃ち城を出て闘ふ時に容顔美麗鎧冑鮮明なる一壮士あり 信高の馬前に来り槍を揮て敵兵を斃すこと十数人 敵為に敗走す 信高其誰なるを知らず 城門に入るに及び壮士聲(声)を擧(挙)て君恙(つつが)なきやと 之を視れバ其妻浮田なり 信高愕(おどろ)き且喜び今日の捷(勝 かち)ハ實(実)に卿(なんぢ)の力なりと大に賞讃せるとぞ 紅雲舎東窓 識"
"富田信高 安濃津の城を守る 毛利吉川等之を攻め兵を進めて入らんとす 信高乃ち城を出て闘ふ時に容顔美麗鎧冑鮮明なる一壮士あり 信高の馬前に来り槍を揮て敵兵を斃すこと十数人 敵為に敗走す 信高其誰なるを知らず 城門に入るに及び壮士聲(声)を擧(挙)て君恙(つつが)なきやと 之を視れバ其妻浮田なり 信高愕(おどろ)き且喜び今日の捷(勝 かち)ハ實(実)に卿(なんぢ)の力なりと大に賞讃せるとぞ 紅雲舎東窓 識"
2011年8月21日日曜日
てるてる法主おひよりおどり 歌川国芳
てるてる法主おひよりおどり 歌川国芳 年代不詳
おひよりごきとふ/\ てり升/\てらせ升
おてんきくわいせい/\ お子さまがたのおてざいく
あしたハおひよりはれ升/\
おてんき/\ おひより/\/\
めつそなおてんきごうぎなおひより
てり升/\/\"
お日和ご祈祷お日和ご祈祷 照り升照り升照らせ升
お天気快晴お天気快晴 お子様方のお手細工
明日はお日和 晴れ升晴れ升
お天気お天気 お日和よりより
滅相なお天気 豪儀なお日和
照り升ますます
おひよりごきとふ/\ てり升/\てらせ升
おてんきくわいせい/\ お子さまがたのおてざいく
あしたハおひよりはれ升/\
おてんき/\ おひより/\/\
めつそなおてんきごうぎなおひより
てり升/\/\"
お日和ご祈祷お日和ご祈祷 照り升照り升照らせ升
お天気快晴お天気快晴 お子様方のお手細工
明日はお日和 晴れ升晴れ升
お天気お天気 お日和よりより
滅相なお天気 豪儀なお日和
照り升ますます
2011年8月15日月曜日
甲越勇将傳 武田家廿四将 山本勘助入道鬼齋晴幸 歌川国芳
Yamamoto Kansuke Nyudo Dokisai Haruyuki / Koetsu yusho den Takeda-ke nijushi-sho (Biographies of Heroic Generals of Kai and Echigo Provinces, Twenty-four Generals of the Takeda Clan) / Kuniyoshi
甲越勇将傳 武田家廿四将 山本勘助入道鬼齋晴幸 歌川国芳 1848年
"三州牛窪の産 幼稚(おさなき)より兵書に眼を曝(さらし)て孫呉が奇術を得たり若冠(わかゝり)し時故有て五體不具となりし事或ハ武田家に仕官(つかへ)て所々に勲功ありし等ハ人能知れバ此紙に不言 扨も永禄四年辛酉九月四日に武田上杉の両軍勢川中嶋に合戦の砌 敵将謙信奇計をめぐらし車係の陣を布(しき)味方の勢の難義といひ曾(かつ)ハ大将の籏本さへ危しと見切しかバさらバ命を爰に捨て君恩を報ずべしと手勢を撰(すぐつ)て七十五人 北越無雙の勇将と聞し長尾越前守義景が勇ミ進める兵の中へ會釋もなく突て入 縦横無盡に切て廻り目に余る大軍を七度まで追崩し身も鉄石にあらざれバ數ヶ所の深手に是までなりと一歩も不去(さらず)討死なししハ實(げ)に比類なき働ともまた惜むべき有様ともいふべし 應需 柳下亭種員誌"
2011年8月8日月曜日
太平記英勇傳 荒儀攝津守村重 歌川国芳
no. 27 Aragi Settsu-no-kami Murashige / Taiheiki eiyuden (Heroes of the Great Peace) / Kuniyoshi
太平記英勇傳 荒儀攝津守村重 歌川国芳 1848~1850年頃
"攝州伊丹城主なり其先将軍義昭公に随従して春永に鉾楯(ぼうじゆん)せしが義昭公の柔弱なるをうとんじ大多に降り春永の面前に出るに及んで村重の曰己が領國摂州の地ハ総て十三郡分國にして敵徒所々に城を構へ兵士を集むあハれ其(それがし)に切取の事を仰付られなバ身命を抛(なげうち)切鎮るべしと言上なすに春永莞尓として答をなさず坐右を見玉ふに高坏に饅頭を盛並しものあり腰刀を引抜切先に三ツ五ツ串貫(さしつらぬき)いかに村重我寸志なり食すべしとて目の上に差付たまふ一坐色を失なふ中に荒儀聊(いさゝか)恐るゝさまなく有がたしとにじりより大の口をくわつと開き切先に貫し饅頭を只一ト口に食んとなす春永大きに笑ひ玉ひ聞及し汝が大膽我をさへ驚せり望に任せ切取て摂津守たるべしと仰けれバ村重面目を施し直に打立程なく一國を切従へしが後再び春永に叛き竟(つひ)に伊丹の城を責落され圍(かこミ)を切抜一命を遁れ剃髪して一期を送りしとかや 一家略傳史 柳下亭種員記"
2011年8月2日火曜日
本朝文雄百人一首 巴女 歌川国芳
Tomoe-jo, from the series One Hundred Poets from the Literary Heroes of Our Country (Honchô bun'yû hyakunin isshu) / Kuniyoshi
本朝文雄百人一首 巴女 歌川国芳 1842~1843年頃
"權頭兼遠が女(むすめ)木曽義仲の妾(せふ)武勇力量人に越え無双の美人なり義仲亡びて後 和田義盛に嫁し一子を産 義秀これ也 和田合戦後越中に尼となり引篭(ひきこもり)九十余才まで壽ける"
"おほ空に月のひかりもきよけれバ 影見し水ぞ まづこほりける ともへ"
古今和歌集 巻第六 冬歌 三一六 題しらず よみ人しらず
大空の月の光しきよければ影見し水ぞまづ凍ける
本朝文雄百人一首 巴女 歌川国芳 1842~1843年頃
"權頭兼遠が女(むすめ)木曽義仲の妾(せふ)武勇力量人に越え無双の美人なり義仲亡びて後 和田義盛に嫁し一子を産 義秀これ也 和田合戦後越中に尼となり引篭(ひきこもり)九十余才まで壽ける"
"おほ空に月のひかりもきよけれバ 影見し水ぞ まづこほりける ともへ"
古今和歌集 巻第六 冬歌 三一六 題しらず よみ人しらず
大空の月の光しきよければ影見し水ぞまづ凍ける
古根本朝名女百傳 巴御前 歌川国芳
Tomoe Gozen, from the series One Hundred Stories of Famous Women of Japan, Ancient and Modern (Kokon honchô meijo hyakuden) / Kuniyoshi
古根本朝名女百傳 巴御前 歌川国芳 1843年頃
"和田義盛の内室となる木曽殿打死の時生捕となつて鎌倉へひかれしに頼朝公かねて巴が勇力をきこしめされその力をためし玉ハんと御前に召いだしいかに巴とやらん主家の大事に力やおちけんとのたまふをきいて寛尓(につこ)とわらひ座をたつて柳営の真中に建たる柱に諸手をかけ左のミ(さのみ)力もいれざる様にてアイと一トゆりゆりけれバ殿中地震(ない)のふるふが如くいまや御舘(みたち)もくづれんとする大将はじめ仕候の面/\其怪力を懼(おそれ)けるとぞ ひきぬきし松ばかりかと? こころねも をれてふたゝび つまさだめせし 柳下亭種員記"
古根本朝名女百傳 巴御前 歌川国芳 1843年頃
"和田義盛の内室となる木曽殿打死の時生捕となつて鎌倉へひかれしに頼朝公かねて巴が勇力をきこしめされその力をためし玉ハんと御前に召いだしいかに巴とやらん主家の大事に力やおちけんとのたまふをきいて寛尓(につこ)とわらひ座をたつて柳営の真中に建たる柱に諸手をかけ左のミ(さのみ)力もいれざる様にてアイと一トゆりゆりけれバ殿中地震(ない)のふるふが如くいまや御舘(みたち)もくづれんとする大将はじめ仕候の面/\其怪力を懼(おそれ)けるとぞ ひきぬきし松ばかりかと? こころねも をれてふたゝび つまさだめせし 柳下亭種員記"
2011年7月31日日曜日
東海道五十三對 藤枝 歌川国芳
Fujieda / Tokaido gojusan-tsui (Fifty-three pairings along the Tokaido Road) / Kuniyoshi
東海道五十三對 藤枝 歌川国芳 1845年頃
"熊谷次郎直実佛門に入て上洛し黒谷の法然上人の弟子となり蓮生法師と改め故郷へかへる道 藤枝の駅に宿せし家にて鳥目壱〆文(いつくわんもん)を上洛まで借用して其質物(しちもつ)に十念を授け故郷へ帰り其後又上洛の砌壱〆文を返し預け置し十念を今又我に玉ハれといふにいと安き事と十念を返す不思議なるハ初め十念を受し時 池に蓮華十茎咲出たるが今返す時念佛一遍に一茎づゝ消失せり此奇特を感じ責て一ぺんハ我に残し玉ハれと願へバ念佛一遍を与へ上洛しける夫より此家を寺となし蓮生寺と号するなり"
東海道五十三對 藤枝 歌川国芳 1845年頃
"熊谷次郎直実佛門に入て上洛し黒谷の法然上人の弟子となり蓮生法師と改め故郷へかへる道 藤枝の駅に宿せし家にて鳥目壱〆文(いつくわんもん)を上洛まで借用して其質物(しちもつ)に十念を授け故郷へ帰り其後又上洛の砌壱〆文を返し預け置し十念を今又我に玉ハれといふにいと安き事と十念を返す不思議なるハ初め十念を受し時 池に蓮華十茎咲出たるが今返す時念佛一遍に一茎づゝ消失せり此奇特を感じ責て一ぺんハ我に残し玉ハれと願へバ念佛一遍を与へ上洛しける夫より此家を寺となし蓮生寺と号するなり"
2011年7月30日土曜日
百人一首之内 大納言経信 歌川国芳
Poem by Dainagon Tsunenobu, from the series of One Hundred Poems by One Hundred Poets (Hyakunin-issu no uchi) / Kuniyoshi
百人一首之内 大納言経信 歌川国芳 1840~1842年頃
"夕されば門田のいなばおとづれて あしのまろやに秋風ぞ吹く 金葉集秋の部に入る?この詞書に師賢朝臣乃梅津の山里に人々まかりて田家の秋風といふことをよめる歌とあり夕されバは夕暮のさま也芦のまろやとハ芦にて造れる家にてその門田の稲葉ゆへ秋風にそよぐ風情ものかなしくえもいわれぬ趣きを述たるなり"
"六条に住ける頃九月の月の夜にきぬたの音聞こえけれバ から衣擣(う)つこゑきけバ月きよミまだねぬ人を空にしる哉 と詠じけるをりから鬼神詩を吟ずるの図"
"経信の師大納言、八条わたりにすみ給ける頃、九月はかりに、月のあかゝりけるに、なかめしておはしけり。きぬたのをとのほのかにきこえ侍れは、四条大納言の歌、から衣うつ声きけは月きよみまたねぬ人を空にしる哉 と詠し給に、前栽の方に、北斗星前横旅鳫 南楼月下擣寒衣 と云詩を、実におそろしき声して、たからかに詠する物有。誰はかりかく目出き声したらんと覚て、おとろきてみやり給に、長一丈五六尺も侍らんとおほえて、髪のさかさまにおひたるものにて侍り。こはいかに、八幡大菩薩、たすけさせ給へと祈念し給へるに、此もの、なにかはたゝりをなすへきとて、かきけちうせ侍りぬ。さたかに、いかなるものの姿とは、よくも覚すと語給へりけり。朱雀門の鬼なんとにや侍りけん。それこそ其頃さやうのすき物にては侍しか。" 「撰集抄」<巻八第二七 四条大納言・歌>
北斗星前横旅鳫 北斗の星の前に旅雁横たはり
南楼月下擣寒衣 南楼の月の下には寒衣を擣(う)つ
劉元叔「妾薄命」より『和漢朗詠集』346
百人一首之内 大納言経信 歌川国芳 1840~1842年頃
"夕されば門田のいなばおとづれて あしのまろやに秋風ぞ吹く 金葉集秋の部に入る?この詞書に師賢朝臣乃梅津の山里に人々まかりて田家の秋風といふことをよめる歌とあり夕されバは夕暮のさま也芦のまろやとハ芦にて造れる家にてその門田の稲葉ゆへ秋風にそよぐ風情ものかなしくえもいわれぬ趣きを述たるなり"
"六条に住ける頃九月の月の夜にきぬたの音聞こえけれバ から衣擣(う)つこゑきけバ月きよミまだねぬ人を空にしる哉 と詠じけるをりから鬼神詩を吟ずるの図"
"経信の師大納言、八条わたりにすみ給ける頃、九月はかりに、月のあかゝりけるに、なかめしておはしけり。きぬたのをとのほのかにきこえ侍れは、四条大納言の歌、から衣うつ声きけは月きよみまたねぬ人を空にしる哉 と詠し給に、前栽の方に、北斗星前横旅鳫 南楼月下擣寒衣 と云詩を、実におそろしき声して、たからかに詠する物有。誰はかりかく目出き声したらんと覚て、おとろきてみやり給に、長一丈五六尺も侍らんとおほえて、髪のさかさまにおひたるものにて侍り。こはいかに、八幡大菩薩、たすけさせ給へと祈念し給へるに、此もの、なにかはたゝりをなすへきとて、かきけちうせ侍りぬ。さたかに、いかなるものの姿とは、よくも覚すと語給へりけり。朱雀門の鬼なんとにや侍りけん。それこそ其頃さやうのすき物にては侍しか。" 「撰集抄」<巻八第二七 四条大納言・歌>
北斗星前横旅鳫 北斗の星の前に旅雁横たはり
南楼月下擣寒衣 南楼の月の下には寒衣を擣(う)つ
劉元叔「妾薄命」より『和漢朗詠集』346
2011年7月29日金曜日
義士評定之圖 歌川国芳
Gishi hyojo no zu / Kuniyoshi
義士評定之圖 歌川国芳 年代不詳
"一ノ注進 早野勘平 ニノ注進 千崎弥五郎 三ノ注進 速水藤左衛門?"
実際の赤穂藩への急使の状況はwikiによると以下の通り。
元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)巳の刻(午前10時頃) 松之大廊下の刃傷
同日未の刻(午後2時頃) 浅野大学は書状を国家老・大石内蔵助にしたためて、早水藤左衛門と萱野三平を第1の急使として赤穂へ派遣
同日申の下刻(午後5時頃) 一関藩田村家より浅野内匠頭の遺体を引き渡したいから家臣を送るようにという使者が浅野大学に
同日六つ半(午後7時前後) 浅野内匠頭切腹
3月19日(4月26日)卯の刻(日の出前) 第一の急使(早水藤左衛門満尭と萱野三平重実)
同日酉の刻(午後7時頃) 第二の急使(足軽飛脚 刃傷事件発生の事実と藩札処理の指示)
同日戌の刻(午後11時頃) 第三の急使(原惣右衛門元辰と大石瀬左衛門信清 藩主浅野内匠頭切腹の情報)
3月22日(4月29日) 第四報(町飛脚 浅野大学長広お預かりの情報)
3月25日(5月2日) 第五報(町飛脚 江戸浅野家上下屋敷召し上げの情報)
3月27日(5月4日) 赤穂藩の評定(3日間)
3月28日(5月5日) 第六報(赤穂城収城目付及び赤穂代官決定の情報)
4月15日(5月22日) 収城目付荒木政羽と榊原政殊が到着
4月19日(5月26日) 赤穂城開城
※参照サイト「忠臣蔵新聞-赤穂城の明け渡し」
義士評定之圖 歌川国芳 年代不詳
"一ノ注進 早野勘平 ニノ注進 千崎弥五郎 三ノ注進 速水藤左衛門?"
実際の赤穂藩への急使の状況はwikiによると以下の通り。
元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)巳の刻(午前10時頃) 松之大廊下の刃傷
同日未の刻(午後2時頃) 浅野大学は書状を国家老・大石内蔵助にしたためて、早水藤左衛門と萱野三平を第1の急使として赤穂へ派遣
同日申の下刻(午後5時頃) 一関藩田村家より浅野内匠頭の遺体を引き渡したいから家臣を送るようにという使者が浅野大学に
同日六つ半(午後7時前後) 浅野内匠頭切腹
3月19日(4月26日)卯の刻(日の出前) 第一の急使(早水藤左衛門満尭と萱野三平重実)
同日酉の刻(午後7時頃) 第二の急使(足軽飛脚 刃傷事件発生の事実と藩札処理の指示)
同日戌の刻(午後11時頃) 第三の急使(原惣右衛門元辰と大石瀬左衛門信清 藩主浅野内匠頭切腹の情報)
3月22日(4月29日) 第四報(町飛脚 浅野大学長広お預かりの情報)
3月25日(5月2日) 第五報(町飛脚 江戸浅野家上下屋敷召し上げの情報)
3月27日(5月4日) 赤穂藩の評定(3日間)
3月28日(5月5日) 第六報(赤穂城収城目付及び赤穂代官決定の情報)
4月15日(5月22日) 収城目付荒木政羽と榊原政殊が到着
4月19日(5月26日) 赤穂城開城
※参照サイト「忠臣蔵新聞-赤穂城の明け渡し」
2011年7月28日木曜日
人間萬事愛婦美八卦意 癇積の晴嵐 損 歌川国芳
The Trigram Xun, Wind: Loss, Clearing Weather after a Temper Tantrum (Son, kanshaku no seiran), from the series Eight Views of Incidents in Daily Life: Women Representing the Eight Trigrams (Ningen banji ômi hakkei) / Kuniyoshi
人間萬事愛婦美八卦意 癇積の晴嵐 損 歌川国芳 1849~1850年頃
"此卦にあたる人ハどうもかんしやくがあつてじり/\して やゝともするとなにかをこハす事があり それハまことにわるいしやれにて とがもなきどびんやゆのミがいつでもやられるなり これほんのむだ事にて あとにてすぐにかハねバようがたりず さつそくそんがゆくなり じつにたんきハそんきできんせんをつひやし たぬきせんきできんたまをふくらし せつかくたまつたどうぐをかんしやくでこハし/\するとほねをりぞんのくたびれまうけなり それゆゑにせき損さまの御しんごんにも こハすハそんだばさらんだ?とまうす ありがたし/\"
人間萬事愛婦美八卦意 癇積の晴嵐 損 歌川国芳 1849~1850年頃
"此卦にあたる人ハどうもかんしやくがあつてじり/\して やゝともするとなにかをこハす事があり それハまことにわるいしやれにて とがもなきどびんやゆのミがいつでもやられるなり これほんのむだ事にて あとにてすぐにかハねバようがたりず さつそくそんがゆくなり じつにたんきハそんきできんせんをつひやし たぬきせんきできんたまをふくらし せつかくたまつたどうぐをかんしやくでこハし/\するとほねをりぞんのくたびれまうけなり それゆゑにせき損さまの御しんごんにも こハすハそんだばさらんだ?とまうす ありがたし/\"
偽一休和尚説法之図 歌川国芳
The False Ikkyû Preaching to the Bill Collectors / Kuniyoshi
偽一休和尚説法之図 歌川国芳 1843~1847年頃
"一休和尚ハ後小松天皇の御落胤なり其名を宗純と申し都紫野大徳寺なる宗曇花叟の嗣法にて出藍の方(さえ)弥(いよ/\)高く禅機悟法に長給ふ故 世の人是を生佛と称す 或年河内国生駒嶽(いこまやま)の麓に閑居したまひしに、時節(おりしも)極月(ごくげつ)晦日(つごもり)の夜 草庵へ討債(かけこい)共の大勢にて来りしかバ御弟子箔蔵主(はくぞうず)ハ侠客野晒悟助(おとこだてのざらしごすけ)といひあハせ、自(みずから)一休なりといつはり地獄極楽の有様を軍陣のことによけ?いと面白く法談なし或ハ諸経の趣意をやハらげ無常迅速の理を世にあハれげに説けれバ悟助ハ程よき頃を見て勧進木さく(柄杓)を持まハるに聴衆の面々感にたへ債(はたる)ことハうち忘れ貸高を記した帳面に墨をひきて消あれバ他所にて債りし金銭を布施物にいるゝ者も有て暫時欲念を散じけるとぞ 故人京伝翁の著作せられし本朝酔菩提の文を省略して 柳下亭種員筆記"
"はたるべき かけハはたらで つみとがの帳けしをさへねがふをかしさ たねかず"
参照:錦絵の風刺画データベース(ウィーン大学)
偽一休和尚説法之図 歌川国芳 1843~1847年頃
"はたるべき かけハはたらで つみとがの帳けしをさへねがふをかしさ たねかず"
参照:錦絵の風刺画データベース(ウィーン大学)
古根本朝名女百傳 綺田村孝女 歌川国芳
The Filial Daughter of Kawada Village (Kawadamura kôjo), from the series One Hundred Stories of Famous Women of Japan, Ancient and Modern (Kokon honchô meijo hyakuden) / Kuniyoshi
古根本朝名女百傳 綺田村孝女 歌川国芳 1843年
"山城國綺田村(かハだむら)に善心深き農民あり一人の女子を持しが顔貌美く父母に至孝にて幼少より佛を帰依し父或時童の為に殺れんとせし蟹を救け或日また蛇(くちなハ)の蟇を呑んとするを見て汝蟇を放ちやらバ我娘を與(あたへ)んと戯れに云たりしに言葉の如く放やり次の夜より人と化し約束の息女をたまハれと來ること三夜なり終に女を与へざれバ正身の蛇となつて寝間近く來りしかバ小女ハ一心に普門品を讀誦し信心す折から數多の蟹あらハれ件の蛇を亡して危き難をすくひける今彼所にある普門山蟹満寺ハ其蛇を埋たる地へ建しものなり くちなハの呑んとよれる池水にわかかへる手のかげやとめけん 柳下亭種員記"
古根本朝名女百傳 綺田村孝女 歌川国芳 1843年
"山城國綺田村(かハだむら)に善心深き農民あり一人の女子を持しが顔貌美く父母に至孝にて幼少より佛を帰依し父或時童の為に殺れんとせし蟹を救け或日また蛇(くちなハ)の蟇を呑んとするを見て汝蟇を放ちやらバ我娘を與(あたへ)んと戯れに云たりしに言葉の如く放やり次の夜より人と化し約束の息女をたまハれと來ること三夜なり終に女を与へざれバ正身の蛇となつて寝間近く來りしかバ小女ハ一心に普門品を讀誦し信心す折から數多の蟹あらハれ件の蛇を亡して危き難をすくひける今彼所にある普門山蟹満寺ハ其蛇を埋たる地へ建しものなり くちなハの呑んとよれる池水にわかかへる手のかげやとめけん 柳下亭種員記"
2011年7月27日水曜日
賢女烈婦傳 玉依姫 歌川国芳
Tamayori-hime [=Tamaori-hime], from the series Stories of Wise Women and Faithful Wives (Kenjo reppu den) / Kuniyoshi
賢女烈婦傳 玉依姫 歌川国芳 1842~1843年頃
"按察使大納言輔方卿の女無冠太夫敦盛が室也 夫須磨にて打死の後剃髪禅衣の姿となり其名を蓮華尼公といひ花洛五條新善光寺御影堂に閑居し阿小女扇を制し玉ふ今扇屋に御影堂の名あるハ此女性をもつて鼻祖とするなり"
賢女烈婦傳 玉依姫 歌川国芳 1842~1843年頃
"按察使大納言輔方卿の女無冠太夫敦盛が室也 夫須磨にて打死の後剃髪禅衣の姿となり其名を蓮華尼公といひ花洛五條新善光寺御影堂に閑居し阿小女扇を制し玉ふ今扇屋に御影堂の名あるハ此女性をもつて鼻祖とするなり"
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