2012年10月8日月曜日

原子力規制委 田中委員長 インタビュー

原子力規制委 田中委員長 インタビュー 再稼働手続き白紙 ストレステスト採用せず 「新基準」10ヶ月以内に 従来プロセスと決別 福島民報2012年9月25日2面

“ 原子力規制委員会の田中俊一委員長(福島市出身)が二十四日、共同通信のインタビューに応じ、再稼働に向けた原発の安全性の判断に関し「規制委の判断基準として安全評価(ストレステスト)を採用しない」と述べ、安全評価の結果は審査せず、今後十ヶ月以内に定める新たな安全基準に基づいて判断する方針を示した。”

福島第一、安定と言えない 一問一答

“ 原子力規制委員会の田中俊一委員長インタビューの一問一答は次の通り。

―今後定める原発の安全基準の課題は。

 「大飯原発の再稼働で使われた暫定基準がまったくだめではないが、東京電力福島第一原発事故や各事故調査委員会の報告を踏まえ、きちんと見直す。一番気にしているのは断層の問題。大飯は来月にも私たちの目で見て判断したい。防災計画がきちんとできていないと地元は原発の稼働に納得できないだろう」

―地震時に拠点となる免震棟の整備は時間がかかる。

 「再稼働に絶対必要な条件と、これは何年以内に設置しなさいという仕分けは出てくると思う」

―電力各社がまとめた安全評価(ストレステスト)の扱いは。

 「われわれの判断基準として採用はしないつもり。提出済みであっても規制委として良しあしを判断するつもりはない。それらを包含した形で安全基準をつくる」

―二次評価の扱いは。

 「安全性を向上させるためなら、電力会社が自主的にすればいい。大いにやってほしい」

―旧原子力安全委員会が示した、原発から三十キロ圏内を防災重点地域とする考え方は。

 「積極的に変える理由はない。ただ福島の事故を踏まえ、情報がちゃんと伝わっていないとか、病院の人が動けなくなるとか、子どもが不必要な被ばくをしたとか課題がいっぱいある。指針や計画は大急ぎでつくる」

―福島の緊急事態線源の解除は。

 「第一原発は安定しているとは言い切れない。使用済み燃料を取り出すまでは難しい。ただ首相が判断することだ」

―従来の規制機関の審査は長期化することが多かった。

 「規制委の議論は、必要あれば『徹夜ででもやって』と言うつもり。急ぐものは急ぐのだから。議論を尽くせるようにしたい。大飯の断層調査の結論もできるだけ早く出す」”

「最も厳しい規制目指す」田中氏 海外記者向けに講演

“ 田中俊一委員長は二十四日、東京都内で海外メディア向けに講演し「日本の原子力規制を世界で最も厳しいレベルにすることを目指す」と決意を述べた。記者からは「以前の経済産業省原子力安全・保安院と同じスタッフで、どう安全確保ができるのか」などと、実現性への厳しい指摘が相次いだ。
 田中氏は「個人の思いを反映できなかった制度の問題。(職員の)意気込み、気構えを大切にすれば十分にその疑問に答えられる」との認識を示した。
 また「大惨事を起こした東京電力は原発から撤退すべきか」との問いには「規制委として判断することはできない。今後、いろいろな議論の中でそういうケースはあるかもしれないが、今、要求することは考えていない」と述べた。
 政府による二〇三〇年代の原発ゼロ方針と使用済み核燃料再処理の継続が矛盾しているとの指摘には「個人的に考えはあるが、コメントは差し控えたい」とした。”


2012年9月26日水曜日

「廃炉、防災が最優先」田中委員長一問一答

「廃炉、防災が最優先」田中委員長一問一答 福島民報2012年9月20日2面

“ 原子力規制委員会の田中俊一委員長が十九日、就任記者会見を開いた。主な内容は次の通り。

 ―喫緊の課題は。

 「優先課題は三つ。東京電力福島第一原発の片付け(廃炉)をいかに安全に進めるか。事故を起こした原子力施設の防災体制をどうするか。低線量とはいえ住民が住んでいるのでその対応。これらが最優先だ」

 ―原発の再稼働基準は。

 「(これまで条件としていた)ステレステストや暫定基準にとらわれず、新基準で見直す。年内の新基準作成は非常に難しい」

 ―関西電力大飯原発3、4号機の再稼働では安全評価(ストレステスト)が条件になった。

 「ストレステストは法的に決められたプロセスではなく政治的な方策だ」

 ―原則運転四十年について。

 「四十年は技術の寿命としてそこそこの長さだ。四十年前の炉は現在の基準から見て、必ずしも十分ではない」

 ―二十年の運転延長は。

 「相当困難ではないか。(最新の科学的知識の適用を既存原発義務付ける)バックフィットが非常に重要になる」

 ―既に四十年を超えている日本原子力発電敦賀1号機など三基の扱いは。

 「規制の在り方はこれから議論する。予断を持って申し上げられない」

 ―原発の新増設について経済産業省との整合性は。

 「今後とも経産省との整合性に配慮するつもりはない」”

原子力規制委員会初代委員長に就任 田中俊一氏 福島民報2012年9月20日2面

“ 「最も重要なのは信頼回復。原点は福島にある」。東京電力福島第一原発事故で原子力行政への信頼は失墜した。未曽有の事故収束はまだこれからだ。規制委員会の発足式では「道筋は並々ならぬ厳しさがある」と訓示、気を引き締めた。
 事故直後の昨年三月末、「原子力の平和利用を進めてきた者として国民に深く陳謝する」と声明を出した専門家十六人の一人。本県などの除染アドバイザーを務め、現地に通った。「反省を行動に移した数少ない人物」と政府は評価したが、批判を恐れて国会同意は先送りしたまま、新組織のかじ取りを委ねた。
 原子力開発が夢の未来につながると思われていた時代、東北大で原子力を学んだ。日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)で長く勤務。日本原子力学会会長、原子力委員会委員長代理などの要職を歴任した。
 一九九九年に茨城県東海村で起きた核燃料加工工場の臨界事故では、現場で対応に当たった。周囲は「行動力があって誠実な人柄」と評する。
 淡々と落ち着いた語り口。普段は硬い表情だが、地元福島の話題になると自然と笑みがこぼれる。ただ、“原子力ムラの住人”との指摘には「レッテル貼りは好きじゃない」と怒りを隠さない。
 就任直前に福島原発の事故現場を初めて見た。「言葉にならないものを感じた。(収束作業は)事業者任せでは駄目だ」。原発推進、脱原発双方の論争が続くが、真に有効な安全規制ができるのか、実行力が問われる。”





2012年9月15日土曜日

廃炉に安全基準設ける 田中原子力規制委員長候補が発言

廃炉に安全基準設ける 田中原子力規制委員長候補が発言 | 東日本大震災 | 福島民報 2012/09/14 11:19

“ 原子力の安全規制を一元的に担う原子力規制委員会の初代委員長候補の田中俊一氏(67)=福島市出身=は13日、福島民報社のインタビューに応じ、東京電力福島第一原発の廃炉作業について安全基準を設ける考えを明らかにした。破損燃料の取り出しや高濃度汚染水の管理など現在の保安規定で対応できない部分を補い、原子炉の安全性を確保する。一方、「福島の被災者の声を規制委員会の活動の原点にする」と誓った。”


原子力規制委員長候補 田中俊一氏(福島市出身)に聞く 福島民報2012年9月14日3面

稼働から40年経過した原発の運転 安全的には厳しい

規制庁の専門性向上 幅広い分野から人材活用


―除染アドバイザーを務めた出身地の本県への思いも含め、就任の抱負は。

 「県内での除染を通じて聞いた被災者の声を規制委の活動の原点としたい。本県の今の状況が忘れられないよう、中央に発信するメッセンジャーとしての役割も担いたい」

―国会の所信聴取で、運転から四十年超の原発は原則廃炉とする政府方針を厳格に適用する考えを示した。

 「原発が四十年超えて稼働できるかは非常に厳しい。超えるとしてもハードルが高いと思う。具体的にどのようなハードルになるのかはこれからの議論。政策的な視点からの議論もあるようだが、それは規制委として関与することではない」

―原子炉に精通しているのはメーカー関係者との指摘がある。一方、福島第一原発の事故は電機系統の事故だったとの見方もある。幅広い理系の人材を安全規制に巻き込むべきではないか。

 「私も原子炉の専門家でないと言われたが、原子炉は総合技術。科学、放射能、医療までいろいろな分野の人材がいて成り立つ。規制機関としてどれだけ人材を集めることができるか分からないが、電力事業者が緊張するくらい高いレベルの規制庁をつくる」

―米国の原子力規制委員会(NRC)に比べ、日本の規制当局は権限が弱く体制が脆弱との指摘がある。米国型組織をどう評価し、どのような組織を目指すのか。

 「NRCも最初から独立した組織ではなかった。日本もまた今回独立するのをきっかけに、米国以上にきちっとした規制組織とする覚悟だ」

―福島第一原発事故については、政府、国会、民間の各調査委員会が検証したが、どう受け止めているか。

 「原子炉内部のことが分からないので不明な部分は残った。規制委としても事故原因を探るとともに将来への教訓を引き出したい」

―県や伊達市の除染アドバイザーを務めるなど、事故直後から古里である本県のために活動してきた。

 「福島が元の姿に戻るまでには長い時間がかかるだろう。今まで除染など福島でできる限りの支援をしてきた。委員長に就くと直接とはいかなくなるが、引き続き応援していく」


たなか・しゅんいち 福島市出身。会津高卒、東北大工学部原子核工学科卒。昭和42年、日本原子力研究所に入所し、同研究所東海研究所長、同研究所副理事長などを歴任。平成17年に日本原子力研究開発機構特別顧問となり、原子力委員会委員長代理も務めた。

2012年7月23日月曜日

「福島の環境取り戻す」田中俊一氏

「福島の環境取り戻す」 原子力規制委員長候補の田中俊一氏 事故反省し除染尽力 福島民報2012年7月21日2面


伊達市霊山町で果樹除染の実験に取り組む田中氏(右)=平成23年8月

” 原子力規制委員会の初代委員長として「白羽の矢」が立った田中俊一氏は、東京電力福島第一原発事故後、放射性物質による汚染で苦しむ本県で除染活動に尽力してきた。
 「原子力に関わった人間として、県民に大変な迷惑を掛けた。これからの人生を、福島の環境を取り戻すことに尽くしたい」。昨年四月、ともに除染活動に取り組むコープふくしまの野中俊吉専務理事に送ったメールだ。
 田中氏は原発事故後、率先し本県に関わり、県が設立した除染の専門家ボランティアにも登録。作業員に交じり土を削るなど除染に取り組む姿勢に共感を覚える人も多い。
 事故から二カ月後には、計画的避難区域に指定された飯舘村長泥地区で活動を開始。伊達市では住民と共に小学校の校舎やプールの除染に取り組んだ。果樹の除染実験に汗を流し、近くの農家から「おいしそうなモモですね」とうれしそうに購入していた。今も一カ月のうち一週間は県内で過ごす。
 田中氏が除染アドバイザーを務める伊達市の仁志田昇司市長は「専門知識を生かし活躍してほしい。高い次元で判断するのにふさわしい人」と喜んだ。
 特定避難勧奨地点を抱える同市霊山町下小国地区の佐藤好孝さん(七四)は「市が県内に先駆けて除染に取り組む原動力になっていた。現地の人の気持ちを分かっている人なので、期待したい」と話す。福島市の主婦奥田敦子さん(五八)は「仮設住宅で避難生活を送っている人たちは大変な思いをしているので、少しでも助けになるよう復興に尽くしてほしい」と望んでいる。

※原子力規制委員会 国家行政組織法3条に基づいて設置され、委員長と委員4人は原子力や地震の専門家らで構成する。東京電力福島第一原発事故を受け、経済産業省が握ってきた原発の推進と安全規制の役割の分離を実施。原発に関する技術的、科学的判断に基づく決定は、首相でも覆せない。実務は事務局の「原子力規制庁」が担う。

解説 原子力ムラとの距離重視

 今後の原子力安全規制を担う原子力規制委員会の人選は、業界とのもたれ合いから東京電力福島第一原発事故を防げなかった反省を踏まえ、「原子力ムラ」から距離を置くことに重点を置いた。
 日本原子力学会会長を務めるなど「重鎮」でありながら、事故後は本県入りして除染に取り組むなどしている委員長候補の田中俊一氏は、こうした距離感に加え、「事故の反省」も条件とした政府の人選方針に合致したとみられる。
 委員長を含め五人の委員は、それぞれ「原子炉」「地震」「放射線防護」などの専門分野のバランスを取った布陣を目指す。しかし原子炉メーカーや電力会社の出身者の方が原発の構造などに詳しいのも事実で、こうした人材を過度に遠ざけることで、万一の事故の際、対応が不十分になる恐れも指摘される。
 田中氏ら五人は早速、原則四十年と定めた原発の運転期間の扱いや、関西電力大飯原発3、4号機(福井県)に続く再稼働問題への対応などに直面する。
 ただ五人で山積するすべての課題をカバーするのは難しい。より実効性を伴った安全規制を実現するには、事務局の「原子力規制庁」をはじめとした各委員をサポートする体制の整備も急務だ。

原子力規制委員会 人事案

委員長 田中俊一   前原子力委員会委員長代理 [放射線物理]

委  員 中村佳代子 日本アイソトープ協会主査 [核医学]

委  員 更田豊志   日本原子力研究開発機構副部門長 [原子炉安全工学]

委  員 大島賢三   元国会事故調委員 元国連大使

委  員 島崎邦彦   地震予知連絡会会長 [地震学]

※[ ]内は専門分野。敬称略”


2012年7月2日月曜日

カタログハウス「子どもの甲状腺検査アンケート」

※カタログハウスが2012年6月末に福島県在住の読者宛に送付した往復はがきによるアンケート。

往信 表

宛先と宛名のみ

往信 裏

福島県立医科大学が行なっている「子どもの甲状腺検査」について。

拝啓 福島県在住の読者で、甲状腺検査対象のお子さんやお孫さん(昨年の3月11日時点で18歳以下)がいる方へ。

いつも通販生活をご愛読くださりありがとうございます。
「福島県立医科大学が行なっている子どもの甲状腺検査」について、ご意見をお聞かせください。
本誌秋冬号(10月発行)の「福島のお母さんたちの今」(仮)という特集に使わせていただきたいのです。

●個人名は許可なく発表することは一切いたしません。アンケートにもお名前等を記入されたくない方は、無記名でけっこうですので、ぜひ返信用はがきのアンケートにご協力のほどお願いいたします。恐れ入りますが7月10日までにご返信ください。(該当するお子さんがいらっしゃらない読者は回答なさらないでけっこうです)

敬具

(株)カタログハウス 読み物編集室
電話:03-5365-2299 FAX:03-5365-2298
E-mail:kikaku@cataloghouse.jp

返信 表

東京都代々木支店
私書箱65号
(東京都渋谷区代々木2-12-2)
カタログハウス
「子どもの甲状腺検査アンケート」係

(バーコード)

↓お名前等を記入されたくない方は無記名でけっこうですが、お住まい、性別、年齢など、出来る限りのご記入をお願いします。
 ※本件に関する各種個人情報は取扱いを厳重にし、他の企画等では一切使用しません。

(回答欄)

お客様番号 お名前 お住まい(市町村まで) ご記入者の年齢と性別 お子さんの年齢と性別

ご回答を拝見した編集部が詳しくお聞きしたい場合、お答えいただける方は電話番号をご記入ください。 電話番号

返信 裏

(アンケート)

問1 お子さんは甲状腺検査を受けましたか。
a.受けた( 年 月 日)※検査結果は(A1 A2 B C)
b.まだ受けていない( 月 日 時点)

問2 福島県立医科大学が行なっている甲状腺検査について、どうお感じですか。
a.とくに不安はない。
b.少し不安がある。 c.とても不安がある。

問3 問2でbまたはcと答えた方へ。その理由として下記に該当するものがあればいくつでもマルを。
イ.検査を受けていない。せめて、何月になるのか知りたい。
ロ.現在、検査結果は「しこりやのう胞の有無」「再検査の必要の有無」などが書面で通知されるだけだが、超音波検査の画像や医師の所見も知りたい。
ハ.超音波検査だけでなく、血液検査もしてほしい。
ニ.1回目の甲状腺検査のあとは2年に1回の検査になるが、もう少し間隔を短くしてほしい。
ホ.県の検査とは別に、県内外の病院で自由に甲状腺検査を受けられるようにしてほしい。
ヘ.検査に関して国がもっとバックアップすべきだ。

●そのほかのご意見



※以上

2012年6月11日月曜日

絵本通俗三国志より「華陀刮骨治関羽」


絵本通俗三国志. 初,2-8編 / 池田東籬亭 校正 ; 葛飾戴斗 画図

五編巻之八 華陀刮骨治関羽

関羽。すでに。魏の七軍を打平げて。一手の勢を。郟下にさしむけ。みづから。大軍を引て。樊城の四方を囲ミ。北の門に馬を立て。汝等城中の鼠。なんぞ。早く降らざる。われ忽ちに打破て。一人も餘さじと。よバゝり。大膚抜になりて。兵を下知しけれバ。曹仁。矢倉の上より。望ミ見て。きうに。五百余張の弩を。同時にはなち出しけるに。関羽。右の臂を射れ。馬より。倒(さかさ)まに落しかば。城中より。これを見て。曹仁。一度に討て出けれバ。関平。兵を進て。大に戦ひ。父を救て。本陣に回(かへ)り。鏃を掘て抜けるに。元来。毒藥を付たる。矢なりしかバ。血流れて止ず。臂ハ。青く腫て。痛はなハだ忍びがたし。関平。諸将をあつめて申けるハ。父の矢瘡。痛手なれバ。しバらく戦ひを休(やめ)。荊州に回りて。保養すべし。王甫が曰く。某が意(こゝろ)も。相同じとて。ともに帳中に入て。その体を見に。関羽。席上に坐して。常に異ならず。汝等。いかなる。ゆへかあると。問けれバ。王甫が曰く。某等ミな。将軍の矢瘡重を見に。若(もし)敵に臨んで。怒を発し。又ハ合戦に出て。臂を使ひ玉ハんことを怕(おそ)れ。諸人相議して。しバらく。荊州に回らんと存じ候。関羽。怒つて申けるハ。われ。樊城を取こと。目前にあり。樊城をとりて。後の患(うれひ)を除き。長く駈て。大にすゝミ。都の内に攻入て。曹操が首を刎。再び。漢の天下を。興さんことハ。これ我。もとよりの願也。豈小の矢瘡によりて。これ程の。大事を廃せんや。汝等。無用の舌を揺(うごか)して。諸軍の心を。おこたらしむることなかれと。叱けれバ。諸将おそれて退出す。しかれ共。瘡の痛。はなハだしく。なりけるゆへ。四方に人を遣して。名ある毉者を尋けれバ。ある日。一人の毉士。小舟にのりて。呉の國より來る。関平。よび入れて。對面すれバ。その人。あやしき衣を被て。臂に青き嚢(ふくろ)をかけ。某ハ。沛國譙の人にて。華陀。字ハ元化と申もの也。関将軍ハ。天下の義士。いま毒の矢に。中(あたり)玉ふときいて。療治を加ん為に。來れりといひけれバ。関平問て曰く。御辺ハ。そのかミ。呉の大将。周泰が瘡を治したる人か。華陀が曰く。しかり。関平大に喜び。諸将とともに。中軍に入りて見れバ。関羽ハ。臂の痛。はなハだし。かりけれども。諸軍の。乱れんことを怕れ。痛をしのんで。馬良と。碁を打て。居りけり。関平すなハち。華陀を引て。對面させけれバ。関羽座をたまふて。傍に坐せしむ。華陀。瘡を見んと請けれバ。関羽。衣を袒(かたぬ)ぎ。臂を伸て。見せしむるに。華陀申けるハ。これハ弩の矢瘡にして。烏頭といふ。毒藥。すでに。骨に透り入れり。もし。はやく治せずんバ。この臂ながく廃るべし。関羽が曰く。いかなる。物をもつて。治すべきぞ。華陀が曰く。たゞ怕くハ。将軍の。おどろき怕れ玉ハんことを。関羽笑つて曰く。われ死をだに顧ミず。なんの怕るゝことかあらん。華陀が曰く。靜なる所に。一つの柱を立。鉄の環を打て。将軍の臂を。環の中に入れ。縄を以てよく/\縛り。被(ふすま)をもつて顔を?(おほふ 蒙)。病人。これを見れバ。怕れ動くことを。おもふゆへなり。われ。刀をもつて。皮肉をさき。ひらき。骨に付たる。毒を刮りて。藥をもつて。これを塗。その口をぬふときハ。おのづから。無事ならん。たゞ怕らくバ。将軍。おどろき怕れたまふべし。関羽笑て曰く。これにすぎたる。易きことやある。何(なんぞ)柱を用ゆべきとて。酒を出して。もてなし。ミづから。数杯をのんで。本のごとく。又馬良と基を囲ミ。右の臂を伸て。華陀にさづけしかバ。華陀。手に刀をもつて。一人の士卒に。盆をさゝげて血を受させ。たゞ今。切破り候ぞ。おどろき玉ふなと云けれバ。関羽が曰く。早く割玉へ。われなんぞ。世間の小児と。おなじからん。御辺心のまゝに療治せよ。華陀すなハち刀をもつて。皮肉を尽く。切破り。骨を出して。これを見るに。骨すでに毒にそみて。その色青しすなハち刀をもつて。これを割に。満座ミな面を掩て。色をうしなハずと。いふものなし。関羽。酒を飲。肉を食て。笑ひ談(かた)ること。故のごとく。碁を囲で。さらに動ことなかりしかバ。血ながれて盆に滿。華陀。その毒を。こと/゛\く刮り。能々藥をぬり。線(いと)をもつて。口を縫了りけれバ。関羽大に笑ひ。諸人に向て申けるハ。この臂。すでに伸屈(のべかゞむ)ること故のごとし。すこしも痛むことさらになし。華陀が曰く。某。医を業とすること。久しけれども。いまだ。将軍のごとくなる。人を見ず。乃ち。まことの天神なり。某すでに。療治を加る上ハ。百日を。すぎずして。旧のごとくなるべし。よく/\。慎ミ護て。怒の気を起し玉ふな。関羽かぎりなく喜 黄金百両をもつて。謝しけれバ。華陀が曰く。某。もとより。将軍ハ。天下の義士なることをしりて。こゝに来れり。なんぞ。この賜を受んやとて。卒に受ず。別に藥一貼を残し。後に。瘡の口をおふひ玉へといふて。相別れて去にけり。

"華陀関羽が臂を割て毒瘡を療ず"



通俗三国志之内 華佗骨刮関羽箭療治図 歌川国芳 1853年4月


2012年6月10日日曜日

絵本通俗三国志より「孫峻計殺諸葛恪」


絵本通俗三国志. 初,2-8編 / 池田東籬亭 校正 ; 葛飾戴斗 画図

七編八 孫峻計殺諸葛恪

去程に諸葛恪ハ。淮南より回(かへ)りて後。心神恍惚として。快からざりしかバ。中堂に出て坐したる所に。何(いづく)とも無。麻の衣を被(き)て。孝を掛たるもの。一人出来れり。諸葛恪。あやしんで。何ものぞ。いま/\しき体にて。此にきたれると叱けれバ。その人大におどろき。茫然としてあきれたる体なり。諸葛恪いかさま是ハ故あらんとて。士卒を召て拷問せしむるに。その人つげて申けるハ。某が父近比亡びたり。是故に僧を請じて。作善追薦の営をなさん為に。此所を寺なりとおもふて入けるに。案の外に太傅の府中なりと云けれバ。諸葛恪もつての外に怒て。門を守る軍士をめして。怪しき人や入たると問に。皆答て。某等一刻も離れず。数十人戈を持。鎗を?(とり)て。門を守といへども。曽(かつ)て左様の人を見ずといひけれバ。諸葛恪。弥々あやしミ。番衆を一人も残さず斬殺し。その夜心易からずして。臥たりしに。俄に正堂の内。おびたゝしく鳴響て。百千の霹靂(いかづち)の。おつるがごとくなりけれバ。自ら行て。これを見るに。正堂の梁(うつバり)中より折て二つとなり。陰風習々として何ともなく。哀ミ哭く音(かなしみなげくこえ)。耳に満て。今朝殺したる。麻の衣を被たる者。数十人の軍士を伴ひ来り。諸葛恪が頭を掴んで。命を求む。諸葛恪。?(たましひ 云+鬼)を喪つて。地の上に倒れけるが。良久(やゝひさしふ)して甦り。早天に起て。湯洗ひ口漱ぎけるに。其水はなハだ血腥かりければ。侍婢を叱つて。水をかへさせけるに。幾度かゆれども。その臭きこと旧のごとく。諸葛恪はなハだ怒り。立所に侍婢を斬て。衣服をき更(かへ)んとすれバ。是も血腥(ちなまぐさふ)して。数十度被更れども臭こと休ず心の内凋帳として居たる所に。忽ち天子勅使あり。太傅を招いて。酒宴をなし玉ハん。早々に参らるべしと云けれバ。諸葛恪。勅を?(うけたまハ 承)り。急ぎ車にのつて多の兵をしたがへ。中門まで出けれバ日比羪(やしな)ひ置たる黄なる犬あり。走り来て諸葛恪が裾を呀(くハ)へ。その?(こへ 士+巴)嚶々として哭く状をなしけれバ諸葛恪が曰く。此犬わが参内を。とゞむるならんとて。遂に引回(ひきかへ)して坐しけるが。暫くありて出けれバ。犬又走り来て引止む。是のごとくなること三度におよびけれバ扨ハこの犬われに戯るゝ也とて。兵に命じて逐打せ。車を推て出けれバ。俄に白き虹。地より起て。練絹を引がごとく。天に上り失にけり。諸葛恪左右の人にむかつて。此ハ不吉の兆にあらずやと問けれバ。皆答てこれ慶の吉兆なりと申す。已に車をはやめて禁門に入けれバ。武衛将軍孫峻。出迎へ地に拝して申けるハ。太傅の尊体。近此不安なるときゝ玉ひて。天子酒宴を設けて待玉ふと。云ければ互に礼了(おハり)て内に入けるに。御林の大将張約。車の前に来て。今日宮中の酒宴ハ。某さらに心得ず。はやく此より回玉へと。私語(さゝやき)けれバ。諸葛恪大にあやしんで。急に車を回しけるに。太常卿滕胤つと来り。車の前に拝伏して曰く。これハ何とて御回(おんかへり)はなハだしふして。天子に見(まミ)ゆることを得ず。滕胤が曰く太傅さきに。魏を攻玉ひて後卒に天子に見へ玉ハず。今日酒宴を設けて。國の大事を議し玉ふ。假令(たとひ)いかなる事ありとも。是まで来て回り玉ふことやある。勉て天子に見玉へ。諸葛恪已ことを得ず。相共に宮中に入けれバ。呉主孫亮出迎て曰く。朕久しく。太傅に逢ず。今日酒宴を設けて。一大事を議せんとほつす。諸葛恪が曰く。いかなる大事にて候ぞ。孫亮が曰く。しバらく坐せよ國家の政を議せんとて。孫峻に命じて。盃をとらせけれバ。諸葛恪心の内安からず臣が病ハまだ痊(いへ)ず。是故に酒を呑ずと云けれバ。孫峻が曰く太傅は常に薬酒を製して。飲玉ふと?(うけ 承)玉ハる。急ぎ人を馳てとり来らしめん。諸葛恪が曰く我病薬酒ハ苦しからず孫峻すなハち人を遣して。諸葛恪が。みづから造置たる。薬酒をとりよせけれバ。諸葛恪も。心を安んじて。是をのミ。已に數返におよびけるとき。孫亮事に託(よせ)て外に出けれバ孫峻殿(でん)の上より走り下り。衣裳を脱で。小具足ばかりになり。刀を提げて。おどり出。天子詔あり。逆賊を誅すとよバゝりけれバ。諸葛恪大におどろき。盃を弃(すて)て劔を抜とき。首ハ已に地に落たり。張約これを見て。刀を舞して討て蒐(かゝ)り。孫峻と戦て。張約。右の臂を斬落され。孫峻は左の指を斬れにけり。ときに武士ども走り来り。張約を寸々(すだ/\)に斬て肉泥としけれバ。朱恩かなハじとや思ひけん。外に走りけるを。追付て斬殺す。孫峻すなハち大音あげ。諸葛恪罪ありて。已に誅し了り。諸人罪なしとよバゝりけれバ。上下ミな安堵をなす。其後殿上の血をきよめ。再び呉主孫亮を請じて。慶の酒宴をなし。芦の蓆をもつて諸葛恪が屍を包ミ。篾(たけむしろ)をもつて上を束ね。車にのせて城南の門外石子崗の塚坑にぞ弃させける。諸葛恪が妻ハ。房(ねや)の内に居りけるに俄に心の愕くやうにして。恍惚としけるが。暫ありて。侍婢一人外より来り。遍身血に汚れたりけれバ。あやしんで何事ぞと問に。その女。目を怒し牙を咬み高踊挙(たかくおどりあがり)て。その頭 梁を撞。われハ乃ち諸葛恪なり今日奸賊孫峻に出抜れて。殺されたりとよバゝりしかバ。一家の老少。おどろき怕(おそ)れて、哭き号(さけぶ)?(こへ 士+巴)四方にきこゆ。不時に武士どもはせ来り。其一家をしばつて尽(こと/゛\)く市に斬る。ときに呉の大興二年 *1 冬十月なり。初め江南の小児の謡に。諸葛恪芦蓆單衣篾鈎落 于河相救成子閣 *2 といへり。昔し父の諸葛瑾常々諸葛恪がはなハだ聰明にして。才智尽く外へ著(あらハ)るゝを嘆き。此子。家を保の主にあらずといひしが。果して此のごとく。又魏の光禄大夫張緝が。司馬師に語て申けるハ。諸葛恪ハ。久しからずして必ず死せん。司馬師その故を問に 威震其主 功蓋一國 なんぞよく。久しからんと云けるが。尽く今日に應ぜり。呉主孫亮。これより。孫峻を丞相大将軍富春侯に封じて。内外の事を総督(すべたゞさせ)けれバ。権柄又一人に属しける。

*1 建興ニ年の誤りか。
*2 宋書に以下の記載があるようだ。

吳孫亮初,童謡曰:「籲汝恪,何若若,蘆葦單衣篾鈎絡,于何相求成子閣。」成子閣者,反語石子堈也。鈎落,鈎帶也。及諸葛恪死,果以葦席裹身,篾束其要,投之石子堈。後聽恪故吏收斂,求之此堈雲。孫亮初,公安有白鼉鳴。童謡曰:「白鼉鳴,龜背平,南郡城中可長生,守死不去義無成。」南郡城可長生者,有急,易以逃也。明年,諸葛恪敗,弟融鎮公安,亦見襲。融刮金印龜,服之而死。鼉有鱗介,甲兵之象。又曰白祥也。

"諸葛恪穢水を嗔(いかつ)て侍婢を斬る"


"諸葛恪が妻閨中に奇怪を見る"


2012年5月4日金曜日

田中俊一氏に聞く 「既存の技術 改良すべき」

田中俊一氏に聞く 「既存の技術 改良すべき」 - 東日本大震災|福島民報 2012年5月4日 3面

【除染作業に伴う技術開発の在り方は】

■既存の技術 改良すべき
東京電力福島第一原発事故で拡散した放射性物質の除染作業が本格化する中、NPO法人放射線安全フォーラム副理事長で県除染アドバイザーなどを務める田中俊一氏に除染作業に伴う技術開発の在り方などを聞いた。

-除染の技術開発についての考えは。

「土壌やコンクリート、樹木などに付着した放射性セシウムの除染には2つの課題がある。第1に放射性物質を減らす目標を達成できるかどうか。2番目は広範囲に土壌などを除染する場合に生じる廃棄物をどう抑制するか。効率的に、費用を抑え、廃棄物を減らすことが重要だ。新たな技術より実践の積み重ねが必要となる。特に目新しい技術が求められるものではない」

-現場で作業するに当たり、求められる技術は。

「例えば、側溝などの細かい部分、芝や土手などの表面を薄く削れるような道具があれば作業が楽になる。既に存在する技術を、現場の環境に合った形に改良すべきだ。一瞬で放射性物質を除去する魔法のような技術はあり得ない。コスト意識も大切だ。行政はゼネコンなど大手に頼りがちだが、地元の住民が家や田畑などで使える小型の機器が出回れば、除染が進むのではないか」

-既に開発された技術で効果的なものはあるのか。

「舗装面ではショットブラストは実績がある。放射線量を低減でき、削り取ったくずなどを吸引しながら作業ができる。一方、高圧洗浄には誤解がある。道路や雨どいの放射性セシウムが付着した土や葉を水でかき集めるために使うものだ。除染の効果は得にくい」

-国は除染のモデル事業に取り組んでいる。

「モデル事業は、さまざまな技術を使った結果を示すだけにとどまっている。住民が求めているのは『早く地域をきれいにしてほしい』ということ。除染対象に応じて推奨される技術と効果を具体的に示さなければ、地元の期待に応えられない。多様な技術から最も優れた部分を集約し、共有できるようにすべきだ」

-本県には広大な農地や山林がある。

「原発事故発生後に耕された田畑は除染が難しい。農作物への影響を防ぐため、放射性セシウムの移行を防ぐ取り組みと合わせて考えなければならない。山林は少しずつ作業を進めるしかない。一度に樹木を伐採すれば土砂崩れの懸念がある。地面に落ちた葉は除去、人家に近い木は一部を切るなどの作業が必要だ」

-除染の廃棄物対策をどのように進めるべきか。

「放射性セシウムは粘土やゼオライトなどに付くと安定する。しっかりと移動しないように処分すればいい。政府は中間貯蔵施設で放射性セシウムを除去し、最終的に県外に搬出するとしているが、莫大(ばくだい)な費用と時間を要する。個人的には各市町村で十分な安全対策を施した処分場を設け、収容するのが望ましいと考えている。住民の生活環境を守るための除染を進めるには、地元にも相応の対応が求められる」

たなか・しゅんいち
福島市出身。会津高、東北大工学部原子核工学科卒。日本原子力研究所に勤務し、内閣府原子力委員長代理などを歴任。昨年7月から県と伊達市の除染アドバイザー。67歳。


2012年4月12日木曜日

水野年方先生 : [草稿] / 鏑木清方 [著]

水野年方先生 : [草稿] / 鏑木清方 [著] (現在非公開)




” さしむかひには、「先生」と呼びかけるけれど、人に話す場合には、「宅の師匠が……」さう云つたものだつた。あるひは今でもさう呼ぶ人があるかも知れないが、近頃では藝人の他あまり「師匠」といふ敬稱は用ひないやうだ。

水野年方先生は月岡芳年の弟子で、系統的には純然たる浮世絵師なのだから、先生と云ふよりは、師匠と云つた方が、ピツタリしさうなものだけれど、その態度、風采なり、気持なり、何としても師匠といつたふうではない、そのくせ神田育ちの素地(きぢ)は、夏の湯上りに派手な浴衣で、団扇を片手に、竹縁にあぐらでもかいてゐられると、常磐津を嗜み、河東も少しはいける先生の半面が、それは本名粂次郎の姿をちらと覗かせるふしがないのでもなかつたが、私が弟子入りした時分の、神田東紺屋町の住居を去つて、谷中清水町の新築した家へ移られた、明治二十九年あたりからは、すつかり江戸ツ子を清算して、横から見ても、竪から見ても、歴史画家、水野年方先生になりきつて了はれた。

先生が浮世絵出身でありながら、どうして歴史画に轉向されたか、それは先生の本来の趣味に依るのはいふまでもないけれど、内面的の藝術上の欲求の他に、當時の世間との外面的なひつかかりが、相當有力なものであつたことを閑却することは出来ない、

江戸時代の官学派、宮廷派としての、狩野、土佐、その以外の流派を學んだものは、均しく町絵師と呼ばれて、武士に對する町人と同じく、そこに身分の相違がやがて画格の高下とされてゐた。浮世絵といふのは、厳密にいつて流派とは云へないが、社会の風俗、遊里、劇場に材を求めた上からも、そのグループに属するものは、町絵師の中にも亦た一段格の下つたものとされて、それでも天明から寛政、享和、名工輩出した頃は実力に依つて気を吐いてゐたのだけれど、徳川幕府の威力の失墜と共に、江戸に生れたこの市民藝術も、没落の過程へと急ぐ運命に堕ちたのは已むを得ぬなりゆきであつた。

その中に獨り幕末から明治へかけて、巨匠月岡芳年が踏んばつてゐた。芳年の絵の上の教養は、今日の眼で見ればさう高いものとは云へないのだが、それは時代のせいで、若し芳年だけの腕を持つものが、もうニ三十年後れて出たらたいしたものだつたらう。絵はうまい。北斎を誉めてゐたといふがさうありさうなことで、北斎とも芳崖とも通ふところがある。芳年は好んで武者絵をかいた。遡ればこれはその師國芳の志をついだものである。されば年方先生の歴史画の絵の脈は、井草國芳に續いてゐるわけなのであるが、國芳はその同門で勢力を争つた五渡亭國貞の女絵に對して、己れを知つての武者絵かきとなつたといふ傳説は正しからう。芳年は性来の好みと師授と、もう一つは卑しめられた画格の向上、それはちやうど團十郎と黙阿彌が、史劇、當時のいはゆる活歴に向つたのと同じ途を踏んだもので、その傾向の好尚を代表する菊地容斎の「前賢故実」に學んだ跡も明らかである。

先生はその師のさうした傾向を殊に重んじて、画格の向上を殆んど一生の仕事とされたと云つてもよい程だつた。平常の業務とした挿画以外、自發的に作画される場合、展覧会への出品などは、十の中の八九までは歴史に取材され、忠臣、孝子を画くことを好まれた。その交友もだんだん硬い側の方へ移つて、その生活は、こらがいはゆる浮世絵の傳統に育くまれた人かと不思議に感ずるやうになつて行つた。そんなわけなので私などでも、先生の膝下に在つた頃は浮世絵といふのはどんなものか、又どんな人がうまいのか、その派に關する知識は何も知るところがなかつた。春信を知り、春章を知るやうになつたのは、全く先生の許を離れてから、それも久しい後のことである。

先生が完全に浮世絵から免れようとされた心もちはよく解る。それほど傳統を脱出しようとした先生が、ある時、幸堂得知翁から多数の黄表紙を借りて、當時塾生だつた故人池田輝方に冩させたこともある。私が清長を知つたのはその時で、輝方と二人で豊麗な筆致に一もニもなく傾倒した。
画格の向上は先生自身の生活の向上にも関係が深い。先生の父君は、野中吉五郎といつて左官の棟梁だつた。先生は前にも云つたやうに神田生れだけれど、父君は江戸つ子ではない。先生も若い自分はやはり父の職を業として左官の粂さんであつたのだ。

先生は色白のやさ形で、その自分の美男の俳優、市川權十郎によく似てゐた。子供の時から絵が好きで、十四の年に、根津にゐた芳年の内弟子になつたが、それは根津に廓のあつた明治十何年といふ時分、芳年は大松葉の幻太夫のところへ入り浸つて、家には米櫃に米もなく、借金取の言譯が先生の役といふ始末だつたが、先生は辛抱強い人だからさしてそれを苦にもせず、内弟子の勤めはこんなものと思つてゐたのだけれど、父君はカンカンに怒つて「俺の息子は絵を習ひにやつたんで、借金取の言譯にヤアやらねへ」といふので退げて了つて、仕事場へ連れて行き、家の職を継がせようとした。

後にその父君の話だつたが「色の白い粂次郎が、真夏の暑い日ざかり、炎天の下で真つ黒になつて働いてゐるのを見て、さる仕事場の旦那が、粂さんもあんなに好きな絵を止めさせられて、温和しい気質(きだて)に文句も云はず、ああやつて黙つて仕事をしてゐるいたいたしい姿をお前さんは何と見る、と云はれてしみじみ可愛さうになつて、又芳年先生へ詫びを入れて二度の弟子入りをさせましたよ」と折節の息子自慢に聴かせられたことがある。

神田の家といふのは塗籠づくりの二階屋で、始めは店に竈が並べてあつた。店の上下を除いては、奥は六畳の二階と、下が四五畳の畳が敷いてあるだけで、その奥二階が、先生の唯一の部屋で、画室でもあれば、寝室でもあり、内輪の客には客室でもあつた。

私の上つた時、先生は二十四五、御新造は年上であつた。奥さんと呼ぶ敬稱は未だその頃は行はれてゐない(明治二十四五年)。御新造を約めて「御新(ごしん)さん」と呼ぶ。先生の美男に比べて御新さんは決して美しい方ではなかつたが、伉儷睦ましく、何もかも先生の為めに、世間の付合ひ何やかや、御新さんが無口な先生を助けて切つて廻してゐられた。

四五人の小さい弟子達は、只さへ狭い六畳の間に、先生の机を正面に丁字形に机を並べて、版下の冩し物から習ひ初めるのであつた。先生の机は丈が低く、俎板のやうな形のもので、新聞や雑誌の挿画がこの机の上で作られた。縮緬の小裂れを集めた、御新さんが心づくしの肱突きに左の肱を托し、右の小指と無名指をつなぐ黒い布の指輪のやうなものを嵌めてかいてゐられる。私はこれも絵をかく上に必要なことなのかと思つて、家でこしらへてもらつて嵌めて行つたら、御新さんに「先生は小指がはねる癖があるので、ああやつておいでなのですよ」と云つて笑はれたことがある。左の小指の爪際が、筆の穂先をならすので、いつも黒光りに光つてゐるのが目についた。

先生が好きだつたのか、御新さんの方が好きだつたのか知らないが、いつも猫を飼つてゐられた。私の行く前から三毛の女猫がゐたが、先生の手ずさみに、ボール紙へ裃姿で、扇子を膝にかしこまつてゐる形がかいてあつて、首のところだけがくりぬいてある。そのくりぬいたところへ三毛の首を嵌め込む。猫はうるさいから首を振りながら、あとじさりをする。猫のからだはボールの蔭になつてちつとも見えないから、恰(まる)で猫が裃を着て動いてゐるとしか見えない。このいたづらは先生の創意かと思つてゐたら、芳年翁のところにも行はれてゐたといふことを後になつて聞いた。あるひはその又一時代前に、國芳あたりから始まつたのかも知れない。國芳は有名な猫好きだつたといふから……。

その時分御新さんはかういふことも云はれた。「先生はあんなに柔しくつて、皆さんにどんな失敗(しくぢり)があつても、小言一つ仰しやらないけれども、そんな時は御自分で、どんなにか、じつと辛抱してゐらつしやるか知れないんですよ。ほんたうはあれで酷い癇癪持ちなのを御自分でがまんしてゐらつしやるんで、それは體にわるいと思ふんですが、先生の辛抱強さつたら……。」

それはあながち私達への訓戒の方便とばかりは云へなかつた。まつたく先生は辛抱強い人であつた。どんなことでも耐え忍ぶ。當然なんとか自己の意見を主張するのが利益である場合にも、己れから口を開かうとはされなかつた。長上の無理にも決してさからふやうなことをされず、他から見ては歯がゆい程に、自分といふものを殺して居られた。

明治二十一ニ年頃のことだつたらう。未だ二十歳そこそこの先生は、やまと新聞社へ出勤して挿画をかいて居られたのであるが、尾張町にあつたその社の奥に、トタン家根の木片(こつぱ)普請の二階が先生の部屋に宛てられてゐた。四畳半の琉球畳が敷いてあつて、窓は小さく、土蔵と土蔵の間に建ててあるから風は通らず、日もささぬ。あまり暗いので天井にあかりとりの窓をあけたところが、そのあさがほから、日中はまともに日があたるので、夏の真晝などは、裸になつてゐても居たたまれぬといふのに、肌襦袢をキチンと着て、白地の絣の襟も寛げず、暑いとも云はずに仕事をされるので、他の社員たちから変人扱ひされたといふこともある。

神田時代の若かりし日の先生は、いつも明るく元氣であつたが、それは御新さんのすぐれて快活な氣性が、よく先生の氣もちを引き立ててゐたので、先生自身は決して陽氣な性分ではなかつた。

その頃、若湊といふ角力取がゐた。小結ぐらゐまで取つたかと思ふが、先生はこの力士が好きで、「若湊はさうたいして人氣もなく、大関になつたり、横綱は張れさうもないけれども、ぱつと人に騒がれて、その人氣が持ち堪へられずに幕から落ちるやうな力士ぢやない。画かきなんかも、一時花形と持ち上げられて、はでな盛りを見ようより、一生ぢみに目立たなくても、變らずに暮らせるやうにありたい。私(あたし)はそれで若湊が好きさ。」

二十五六の若盛りに、先生はさういふぢみな處世感を弟子に訓ゆる人であつた。

先生とは、陰と陽との組み合はせのやうであつた先夫人は、谷中へ移るとすぐ病没された。

先夫人に死別されてから、先生の家庭生活は甚だ恵まれざるものであつた。いざとなれば自分の意志を徹(とほ)すことに、意外に勇敢なところもあつたのだけれども、それはせつぱ詰まつた、ほんたうのどうにも抜きさしのならない、已むを得ない時のことで、さて押し切つて徹したあとの心のなやみ、それは心身を蝕ばむ苦しみとなつて己れを責める。先生の早世されたのも、まつたくかうした、あまりにも自分を抑壓されたことが因をなしたものであつたと云へる。亡くなつた御新さんの云はれたやうに、癇癪をじつと抑へる辛抱強さ、それはやつぱり先生の體の為めにはならなかつた。脳を疾んで逝かれた先生の終焉は寔に淋しく、追想は私の心を暗くさせる。

先生の画生活の中で一番緊張して居られたと思ふのは、先夫人の没後、谷中の家の移りたてに、明治三十年十月、日本画會の第一回展覧会へ、堀川御所の佐藤忠信を画かれた時分で、それまでは甞つて公開の展觀へ出品されたこともなかつたのを、夫人との別れ、挿画画家からの轉身、住居の変化、あれも、これも、先生の一生に豁然と時代を分けた機會にあたつて、まだ少年だつた池田輝方君に侍(かしづ)かれて、新しい画生活へのかしまだち。その頃の先生は、その生涯を通じて、画道の精進に最も潔く見えた時であつた。

「忠信」の絵はやはり先生の代表的な作であらう。その絵は 御物となつてゐて再び接する機を有たなかつたが、先年東京朝日の「明治大正名作展」で久しぶりにこの作を見て、いろいろとその當時のことが偲ばれたのであつた。

谷中清水町は大河内子爵家の邸内で、動物園のうしろの暗闇坂を境に、狐狸の巣窟のやうな密林で、物凄い古池があり、その池は一部分が今でも残つてゐるさうであるが、先生が新築をされる時分は、大きな椎の古木が池に蔽ひかぶさつて、あたりは竹藪が多かつた。

先生の画室は二階の六畳で、東は肱かけ窓で、上野の森を仰ぎ、南は縁側があつて掃き出しになつて居り、遠くは本郷臺が見晴らせるし、近くは今云つた古池を眼の下に見る、町家續きの庇間(ひあはひ)で圍まれた神田から移つては、都會の中とは思へぬ閑静さであつた。

併し先生は明るい光線を好まれなかつた。東の窓はいつも枝簾が下してあつたし、あたりの廣濶としたところに地を卜しながら、画室は採光に極めて不充分であつた。

「忠信」の絵は、画室の隣の八畳との隔ての襖を外してかいて居られた。忠信の忠義、それが先生のこの作の画因には相違ないのだけれど、先生の興味の中心は、脱ぎ棄てた紺糸縅の腹巻にあつたと云つてもよかつたらう。その腹巻は先生愛蔵の品で、先生はかうした武具甲冑のたぐひになみなみならぬ愛着を有つてゐられた。

何一つ道樂らしいもののない先生には、この武具の蒐集が一ばん樂しみであつたらしい。京橋の彌左衛門町にあつた武具を賣る店へは、紺屋町時代には私も使ひに行つたことがある。

松岡映丘君のまだ學生だつた時分、この「忠信」の腹巻のザクリと置いてあるのにひどく惹きつけられて、何度も見に行つたことがあると、これも名作展で、その絵の前に立つての昔ばなしであつた。”

「佐藤忠信参館之図 水野年方 1898年」 武者絵の精紳(こころ) その5:イザ!


※早稲田大学図書館古典籍総合データベースで見つけて文字起こししたもの。残念ながら現在は非公開。
※最近になって「銀砂子」の原稿であると知った。
※図書館送信資料なので内容を確認。ほぼ原稿の通りだが、数カ所のルビの指定は採用されていないし、原稿では略字である「画」などは「畫」に改められている。文字起こしの際のミスもあるかと思うので、引用する際は御注意ください。
※「素地(きぢ)」、「気質(きだて)」、「失敗(しくぢり)」、「木片(こつぱ)」、「徹(とほ)す」、などで清方の言葉遣いを、「私(あたし)」で弟子に話しかける時の年方の自称を知ることができる。
※そんなわけで物言いがつかない限りは公開しておきます。
※鏑木清方は1972年(昭和47年)、93歳没。

福島県における水田の反転耕

※結構大規模に水田の反転耕が行われていることを報じるニュースが続いたのでメモ。

※(伊達市で行われているということは、田中俊一氏も反転耕を積極的に評価する考え方に変わったのだろうか)

放射性物質吸着資材を散布 JA伊達みらい、伊達、桑折、国見の水田で - 東日本大震災|福島民報 2012年4月11日


” 平成24年産米の作付けに向け、伊達、桑折、国見各市町から委託を受けたJA伊達みらいは10日までに、国見町の水田で放射性物質の吸収を抑制する資材の散布を開始した。11日に桑折町、12日に伊達市で始める。
 23年産米で1キロ当たりの放射性物質の検出値が500ベクレル以下の地域の水田約1500ヘクタールが対象。4月末までに作業を終える予定。
 国見町の作業では、組合員らがトラクターを使い資材を散布した。10アール当たりゼオライトとケイ酸カリそれぞれ200キロずつ散布した。散布を終了した水田から順次、反転耕作業を実施する。”


喜久田の水田で除染実験 郡山市、秋以降の本格除染前に - 東日本大震災|福島民報 2012年4月11日

” モデル除染は市の委託を受けたJA郡山市が約1ヘクタールの水田で実施した。作業は反転耕で、トラクターで約30センチから40センチの深さの土を掘り起こした。”


2012年4月10日火曜日

「お人形様」国立歴史民博へ 船引町芦沢地区

「お人形様」国立歴史民博へ 船引町芦沢地区 福島民報:福島県の新聞社:ニュース|福島のニュース 2012/04/10

” 田村市船引町芦沢地区に「魔よけの神」として江戸時代から伝わる市民俗文化財「朴橋(ほおのきばし)のお人形様」の複製が、来春から国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)に展示される。8日は関係者の立ち会いの下、保存会が人形の衣替えをした。
「お人形様」は文化15(1818)年ごろ、地域に悪病が流行した際に「災いや病を寄せ付けないように」との願いを込め、住民らが旧磐城街道沿いの高台に飾ったという。江戸時代には5体あったと伝わるが、現在は朴橋のほか、屋形、堀越の3集落で受け継がれている。”


※記事中の三集落を訪れた方のブログがあった。素晴らしい写真、多数。

オニンギョウサマ/福島県船引町 : 珍寺大道場

2012年3月5日月曜日

「国は対応迅速化図れ」NPO法人放射線安全フォーラム副理事長 田中俊一氏

明日への提言「国は対応迅速化図れ」NPO法人放射線安全フォーラム副理事長 田中俊一氏 - 東日本大震災|福島民報 2012年3月 5日


" −避難区域外の「汚染状況重点調査地域」などでも仮置き場の確保が進まず、除染が難航している。

 「仮置き場の設置については、行政、住民の両方に環境の回復に向けた『覚悟』が必要になってくる。行政が設置場所を判断したことを踏まえ、専門的な知見から技術的な安全性と除染をする上での必要性をしっかり住民に説明しなくてはいけない。伊達市は梁川町の街中にある庁舎の近くに仮置き場を設置し、安全性を説明している。住民としても自分たちの生活の場を守るために必要との理解を深めるべきだ」

 −除染を進める上で県、市町村はどういった役割を果たすべきか。

 「福島の深刻な状況を国にしっかりと説明しないといけない。県はこれまで国に具体的な提案が少なかったように思う。中間貯蔵施設の設置についてもっとリーダーシップを発揮すべきではないか」"



2012年2月28日火曜日

美術品 心癒やせず…

美術品 心癒やせず… 誤解で貸し渋り続く 「福島は安全」懸命に訴え : 福島民報 2012年2月16日23面

" 福島市の県立美術館で六月に始まる「ベン・シャーン展」と、郡山市立美術館で昨年秋に開催した「花の画家ルドゥーテ『美花選』展」は一部の作品貸し出しが拒否された。所蔵する美術館側は拒否の理由として、放射線による作品の劣化や変質、損傷、学芸員への影響が懸念されることなどを挙げたという。
 県立美術館の空間放射線量は一階の企画展示室が毎時0.06~0.08マイクロシーベルト程度。学芸員らは測定結果を伝え、作品管理にも万全を期すことなど安全性を訴えたが米国側の姿勢は変わらなかった。"

" 一方、いわき市立美術館は昨年九月に北斎展を計画していたが、原発事故のためハワイのホノルル美術館から代表作を借りることが不可能となった。
 米国政府が原発から80キロ圏外に自国民を退避させる勧告を出したためだ。勧告は昨年十一月に解除されホノルル美術館もいわき側の熱意に応えてようやく作品貸し出しを決定した。今年七月二十一日から開催できることになったが、学芸員は同行せず作品だけを送り出す。"

" いわき市立美術館は余震の影響も懸念する。工芸品は損傷の恐れがあるとして国内からも貸し出しを断られるケースがあるという。同美術館によると、余震の影響で世界最大の保険会社が日本への作品貸し出しについて損害保険の申請を受理しないことを決めた。措置が続けば作品の借り入れが、さらに困難になるという。"

ルーブルなど被災地支援の動き

" 海外の作品所有者全てが貸し出しを拒んでいるわけではない。
 県立美術館で昨年十月末から開いた「ギッター・コレクション展」には、米ニューオリンズの眼科医が収集した約百十点が並んだ。所有者は当初、放射線の影響に不安を訴えたが、被災した本県を思いやり、予定通りの開催となった。
 また、フランスのルーブル美術館は七月、県立美術館で作品展を開催する。本県をはじめ、宮城、岩手の被災三県との連携を示す。"

2012年2月10日金曜日

いわき在住の放射化学の専門家である吉原賢二東北大学名誉教授

「福島県九条の会」 大震災・原発事故速報版 No.6 2011年3月20日

■ FM いわきで,いわき市在住の吉原賢二さん(東北大名誉教授,放射線科学の専門家・ビキニ環礁で被 爆した灰の放射能分析を行う)の話をくり返し放送している。概略,現在の放射線量では大丈夫。
ほかの情報と同様 20,000マイクロシーベルトを超えたら危険との内 容。(本日 10:49 送信)
■ FM いわき(吉原名誉教授その2)。今後について:廃炉にするしかない。東電の姿勢と国の監督によるが,市民がきちんとそれに向けた声を出していくことが大事 。万一危険な状況になった場合は,自治体がきちんと手配するはずだし,国が情報を出すはずだ。それからの避難,疎開で間 に合うはずだ。不安で避難 ,疎開するよりも,いわきで過ごしたほうが良い。(本日 12:03 発信)


「市民のために」スカイストア再開!【いわきスカイストア】 - CANPAN NEWS ~社会貢献活動のいまがわかる(カンパンニュース) 2011年3月24日

" 「何度も繰り返し放送されている、いわき在住の放射化学の専門家である吉原賢二東北大学名誉教授のお話は、私たちいわき市民を安心させてくれる、勇気づけてくれています。広島、長崎のように人間の体に大きなダメージを与える放射能と比べれば、現在のいわき市内の値は1万分の1程度に過ぎないという言葉は、これから先をどう考えていいかわからない、現在の私たちに大きな安心感を与えてくれました」(松崎さん)"


いわき地域情報総合サイト「いわきあいあい」 - 福島県いわき市の地域ポータルサイト - 3/27(日)吉原賢二先生の講演会「原発事故と環境影響について」


"3/27(日)吉原賢二先生の講演会「原発事故と環境影響について」
webmaster     2011-3-25 20:524052 友人に知らせる
東北大学名誉教授 吉原賢二先生の講演会「原発事故と環境影響について」

日時:平成23年3月27日(日)14:00-15:30
場所:草木台集会所

放射化学がご専門で、現在、FMいわきで原発事故に関して解説している、東北大学名誉教授の吉原賢二先生を講師に迎え、「原発事故と環境影響」についてお話します。
<問合せ:0246-??-????(星野さん)>

※会場には駐車場がありませんので、ご注意下さい。"




外で活動、洗濯物を干しても大丈夫|いわき情報堂 2011年04月09日(土)

" 3月27日に、いわき市内で「原発事故と環境影響」と題する講演会が行われました。

いわき市在住で、東北大名誉教授の吉原賢二さんが講師となり、原発事故がある現在、いわきに住んでいても安全なのか、など市民の不安に対して説明しました。
この中で吉原さんは「(放射線量が毎時1マイクロシーベルトに満たない)今の数値なら心配ない。いわきで普段通りの生活をしても大丈夫」と話しました。"


湯本三小のHP

" 4月22日(金)に放射線に関する教育講演会が開かれました。
体育館満席の中で、放射線について非常にわかりやすい説明に、真けんに話に聞き入っていました。講演の概要は次のとおりです。
○ 福島第一原発事故前からわたしたちは自然や人工から放射線を浴びていること。
・ 日本平均で年間3.75ミリシーベルト/年 (内訳:自然放射線1.48 医療被ばく2.25 その他) 換算すると、1日には3.75÷365=0.01ミリシーベルト/日 1時間には0.01÷24=0.00043ミリシーベルト/時 つまり、0.43マイクロシーベルト/時
・4/5現在の本校校庭の放射線量は0.97マイクロシーベルト/時なので、その差の0.53マイクロシーベルト/時は原発事故からの放射線量であることは考えられるが、国から出た3.8マイクロシーベルト/時からすると1/4の数値。
○ レベル7であっても、チェルノブイリ原発事故の比ではないこと
・福島原発は化学爆発(水素爆発)に対してチェルノブイリ原発は核爆発(広島・長崎の原爆と同等)を起こした。その威力は福島原発事故の約10000倍に相当する。
・今後も、福島原発で核爆発を起こすことはあり得ない。
・原発事故防止の三原則(運転を止める、冷やす、閉じこめる)からしても、チェルノブイリは運転を止められなかったが、福島原発は即時運転を止めた。今は、原子炉を冷やしてこれ以上拡散しないようにすることが東電の使命と考える。
○ 「確率的影響」と「確定的影響」の区別をはっきりさせること
・ 実際に起きてしまったことによる影響(確定的影響)は厳粛に受け止め、則対応しなくてはならないが、憶測や予想による影響(確率的影響)にばかり惑わされ、不要な不安・恐怖感を抱かないことが大切。"


「レベル7」現実は想像を超える 放射能汚染は終わらない | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社] 2011年04月25日

"人類史上、例がない

1954年ビキニ環礁に降り注いだ「死の灰」の研究に当たった吉原賢二・東北大学名誉教授(放射化学)は福島第一から46km離れた福島・いわき市内に住んでいるが、避難する気はないという。

「私が住んでいる町は、放射線量が毎時だいたい0・3マイクロシーベルトで、平常より少し高い程度ですから、大したことはありません。放出された放射性物質の量にしても、保安院の言っている37万テラベクレルと、原子力安全委員会の言う63万テラベクレルという、こんな大きな食い違いができる理由はちょっと分からない。根拠がはっきりしないので、そこは非常に不満です。

福島県内でも、浪江や飯舘村などの線量が高いですが、これは気象・地形的な条件によるものでしょう。チェルノブイリの放射線分布とはかなり違う。

原発近くの人は明らかに危険ですから、そういう地域の人は避難すべきですが、私のいる町は何の問題もないと思う。そういう実情はよく調べて、考えてもらわないといけないと思います」

吉原氏自身、かつて実験の際に被曝を経験している。その時、通常6000だった白血球が、一時4000まで下がったが、実験を休んで牛乳を飲むなどしていたら自然に回復したという。もちろんこれは外部被曝だから、いま福島で懸念されている内部被曝とは事情が違うが、放射線被曝による健康被害にはまだまだ未解明の部分が多いのも事実だ。"



放射化学ニュース 第24号 2011/08/31発行

(PDF形式, 5.90MB)

特別寄稿
福島第一原発事故とIAEA の事故評価尺度の不備(吉原賢二)………………………… 30

" 私は福島原発から 48 キロメートル離れたいわき市に住み、避難区域のすぐ近いところでこの事故のニュースを聞き、毎日ハラハラしながらテレビの報道に接した。事故が最悪とされる割には被害が少ないのをいぶかった。事故処理は長引いてはいるが、多くの死者を出したチェルノブイリに比べて福島ではひとりの死者も出ず、放射性物質に汚染された程度も小さく、深刻度はずっと低い。そこで INES の尺度を検討したところ、この尺度そのものに大きな問題があることが分かった。原子力安全・保安院は問題のある INES をそのまま引用して福島の事故を最悪のレベル 7 としたのである。
日本放射化学会の有志の方々と相談し、私が代表者となって国際原子力機関の現在の事務総長である天野之弥氏に手紙を書くこととした。INESの尺度そのものを改訂すべきことを求めたので
ある。"

大震災の中からの証し 吉原賢二 - キリスト教無教会全国集会2011 2011年11月5日

" 今年3月11日、東日本大震災が発生しました。それに加えて東京電力福島第一原子力発電所の原子炉がメルトダウンと水素爆発を起こし、大量の放射性物質が周辺地域に撒き散らされました。この大震災と原子炉事故の災厄の中にあっての私の想いと行動を、ここで証しとしてお話いたします。"



※震災後、FMいわきを聴いて情報を収集していた人なら「あぁ、あの先生か!」と思うに違いない。そうなのだ。今更ながら、その先生のこと。

※震災後、御多分にもれず私も自宅に数日籠城していた。その折に大変こころ強かったのがFMいわきが繰り返し放送した吉原賢二先生の助言だった。私は強く感謝していたにもかかわらず、その後のゴタゴタで先生のお名前を失念していた。ライフラインが復旧した頃に一度、「お名前をキチンと覚えておかなければいけない」と思い立ってアレコレ調べたのだが、その頃はネットの情報も錯綜していて埒があかなかった。

※昨日、やっとのことでこの忘恩の徒は先生の名を知ったのだ。見つけた限りの先生の事を記録しておく。

※ああ、そうだ。3月27日の自分のツイートを添付しておく。たぶんここで答えているのも吉原先生ではないだろうか。あのとき私は吹き出して、そうして少し気持ちが晴れるのを感じた。


※事故直後の3月27日に草木台で行ってくださった講演会について、「いわきあいあい」の記事を転記した。(2013年1月21日)

2012年1月25日水曜日

放射線理由、米の70点展示なし 6月に県立美術館「ベン・シャーン展」

放射線理由、米の70点展示なし 6月に県立美術館「ベン・シャーン展」  - 東日本大震災|福島民報 2012年1月25日


" 神奈川、愛知、岡山を巡回した後、6月から福島市の県立美術館で開かれる「ベン・シャーン展」の作品約500点のうち、米国の美術館七館が貸し出した約70点が県立美術館では展示されないことが24日、分かった。東京電力福島第一原発事故による放射線の影響を心配した米国側が本県での公開を渋り、県立美術館は展示を断念した。

ベン・シャーンは帝政ロシア領生まれの米国の芸術家。県立美術館はシャーンの作品収集に努めており、米国の水爆実験で被ばくした「第五福竜丸」をテーマにした「ラッキードラゴン」などを所蔵している。神奈川県立近代、名古屋市、岡山県立の各美術館と連携して展覧会を企画した。

開催は震災前に決まっていたが、原発事故後、米国の美術館の一館が本県での展示を拒否し、他の館も「開催直前に判断する」との考えを示した。県立美術館は放射線量の測定結果を伝えるなどして理解を得ようとしたが進展がなかった。

ハーバード大付属フォッグ美術館やニューヨーク近代美術館などの所蔵作品が本県では見ることができない。県立美術館は代わりに作品の写真パネル展示など、対応策を検討している。

県立美術館が公表している館内の放射線量(昨年12月27日測定)は玄関が毎時0・14マイクロシーベルト、一階の企画展示室が0・06~0・08マイクロシーベルト。県立美術館での開催は6月3日から7月16日まで。"


ベン・シャーン クロスメディア・アーティスト (展覧会公式HP)

※2012年1月25日現在、上記の件についての発表なし。


[シンポジウム]
「ベン・シャーンと日本・アメリカ」
発表者: ミリアム・ステュワート(ハーバード美術館学芸員)
ロジャー・パルバース(演出家・劇作家)
荒木康子(福島県立美術館学芸員) ほか
12 月 3 日(土)   13:30~
神奈川県立近代美術館 葉山 講堂
聴講無料(要申込、先着順受付)
12 月 4 日(日)   13:30~
東京ミッドタウン・デザインハブ(インターナショナル・デザイン・リエゾンセンター)
聴講無料(要申込、先着順受付)
プログラム内容、定員、申込方法等、詳細は本展情報サイトをご覧ください。
後援: 社団法人日本グラフィックデザ゗ナー協会
協力: 公益財団法人日本デザイン振興会
助成: ポーラ美術振興財団





Lucky Dragon / Ben Shahn (Fukushima Prefectural Museum of Art)

ラッキードラゴン ベン・シャーン 福島県立美術館所蔵

“I AM A FISHERMAN AIKICHI KUBOYAMA BY NAME. ON THE FIRST OF MARCH 1954 OUR FISHING BOAT THE LUCKY DRAGON WANDERED UNDER AN ATOMIC CLOUD EIGHTY MILES FROM BIKINI. I AND MY FRIENDS WERE BURNED. WE DID NOT KNOW WHAT HAPPENED TO US. ON SEPTEMBER TWENTY THIRD OF THAT YEAR I DIED OF ATOMIC BURN.” (こちらのブログ記事のトラックバックを参照)

アメリカ7美術館、福島での所蔵作品展示を拒否 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) 2012年1月26日

" 県立美術館によると、展示が見送られたのは、ニューヨーク近代美術館などが所蔵する写真などの作品。原発事故後、アメリカの美術館3館が、県内での展示を拒否。ほかの美術館は「直前まで様子を見たい」「条件が変われば展示も検討する」などの意向を示していたが、開催時期が迫っていたため、昨年8月、展示を断念した。"


風知草:福島には届かない絵=山田孝男 - 毎日jp(毎日新聞) 2012年1月23日

" 不思議な皮肉だと思う。シャーンは核兵器に関心を示した画家だ。一方、福島県立美術館は20世紀アメリカの具象絵画の収集に努め、シャーンの作品を増やしてきた。その福島で本格的な「ベン・シャーン展」の準備が進んでいた折も折、核の平和利用施設が暴発してシャーンと福島を遠ざけた。"


" 図録や「芸術新潮」1月号にベン・シャーンの解説を書いている福島県立美術館の荒木康子学芸員(51)に「最も福島に来てほしかった作品は何か」と尋ねると、荒木は「解放」(1945年。ニューヨーク近代美術館蔵)を挙げた。"


The paintings that won't reach Fukushima - The Mainichi Daily News

” To me, this turn of events is strangely ironic. Shahn was an artist who displayed an interest in nuclear weapons. At the same time, the Fukushima Prefectural Museum of Art has been collecting 20th century American figurative art, and has expanded its collection of works by Shahn. Fukushima was prepared for a full-scale Ben Shahn exhibition, but following the explosions at the Fukushima No. 1 Nuclear Power Plant — a facility representing the peaceful use of nuclear power — valuable works have been kept away from Fukushima.”


「子どもの生活空間すべて除染を」研究者ら、水戸で講演

「子どもの生活空間すべて除染を」研究者ら、水戸で講演:茨城新聞ニュース 2012年1月19日

" 茨城原子力協議会が会員や市町村職員を対象に開催。高度情報科学技術研究機構会長の田中俊一氏と日本原子力研究開発機構福島環境安全センター長の石田順一郎氏が講演"

" 伊達市の除染アドバイザーを務める田中氏は・・・「経験から毎時0・5〜1マイクロシーベルトが合理的に除染できる限界。茨城県内ではホットスポットだけで十分」との考えを示した。"


2012年1月24日火曜日

甲冑着用備双六 歌川芳員

国立国会図書館のデジタル化資料 - 甲冑着用備双六
甲冑着用備双六 歌川芳員 1858年

振出し
褌 ふんどし 「なるほど/\こうくびへかけれバおちるきづけへなしだ しかしどこかちつときうくつなやうだ」
襯衣 したぎ 「あせぢばんがもつてこいだ ゆきがあんまりミぢッけへがこれでいひかしら これでよし/\」
衣帯 おび 「これもやつぱりもめんにかぎる 〆あんばいがしごく めう/\」
小袴 こばかま 「あんまりかたく〆てハせつねへ/\ はかまをはいたですこしまがよくなつた これでハちつといくさじミてきた」
足袋 たび 「かハたびハいゝが足がほてつてこまります もめんのさしたびがよさそうでござります しかしくつながハできあひにハあるめへねェ」
脚半 きやはん 「きやはんハすねあてのあいだにはくのだ これもゆるいほうがあんばいよしだ かたいとあしがいたミいります」
草鞋 わらんじ 「わらじハめうがあさがいゝとおしへにまかせてはくものゝやつぱりわらがごく上々 そめをくひもにすれハよし/\」
腨当 すねあて 「むすひめハしつかりと しめやうハゆるくするがいひ コレサあんまりゆるすぎてハいかぬ/\」
佩楯 はいだて 「はいたてとハしりのおもいやつにハできねへことだ へんじしてもすぐにハたてねへやつサ」
决拾 ゆがけ 「ゆがけハいづれたてわく?こざくら ちとまつかハににていやす しかしほうさうならゆかけハ上々」
臂罩 こて 「こて/\とハたんとあること こてハさくわんのだうぐ コレハからだへこてへるぜェ」
脇曳 わきびき 「れんしやくでせおふたやうだ おもしろくもねへしやれだ」
胴丸 どうまる 「きなれないとむづかしいものだ いそぎのときにハどうまるものか」
表帯 うハおび 「うハおびをしめてやう/\かたまつた これからまだ/\いくいろもある いそぐときにハまにあハねへ」
肩罩 そで 「そでじころをつけねへうちハぞうべうじミてきがきかねへ これでよし/\」
帯兩刀 りやうたうをたいす 「これでしつかりきまりました なるほどたいとうきまりがいゝ/\」
喉輪 のどわ 「のどハゝよだれかけとまぎらハしいが やくめ?のうちならしかたがねへ つけろ/\」
纒顱巻 はちまきをまとふ 「はちまきをあんまりかたくするとかへつてづつうはちまちた」
蒙頬當 ほうあてをかぶる 「しやんとまつすぐにかぶらないと ほうあてちがひだ」
戴頭盔 かぶとをいたゞく 「かつてかぶとのをゝしめろだが まづまへいわいに一ツしめませう しやん/\/\ おめてたうござります?」
背旗 さしもの 「さしものたけきものゝふがトしやれたらどうだろう」
挿鎗挟 やりばさミをさす 「やり/\ごくろうトいハれそうだ」
楯板 たてのいた 「のぞきハ四文だ おすな/\」
竹束 たけたば 「七月六日にうれのこつたやつだ チトきまりがわりい」
銕炮 てつばう 「てつはうハこのすごろくとおなしこと きつとあたると人のいふらん なんといゝうただろう」
一番鎗 いちばんやり 「ちかごろ一ばんやりもせんだいばでつかいますから おほきにやすッぼくなりやした」
母衣 ほろ 「ほろをふくらがそうとおもつて かぜにむかひ一生けんめいかけだしたら ついてきぢんをいきすぎました めんぼくない/\ しなびました」
狼煙 のろし
一番乗 いちばんのり 「うぢ川のせんぢん さゝきの四郎たかつなとなのりたくなるやつさ ついおのれのなをわすれてしまつた なんとかいつたつけ」
弓箭 ゆミや
熊手 くまで 「よくばつてゐるやうだが かきこむにハいゝだうぐだ」
一騎 いつき
長刀 なぎなた 「あぶねへぞ/\よるな/\さわるといれるぞ ありや/\/\」
首帳 くびちやう 「まことひまでござります めでたい/\ちをぬらずしていくさハかち/\ぢきまくがしまつたハエ」
軍師 ぐんし 「こうしてゐる形ハうらないしやのやうだが これでもこんどハたれが上ルこのつぎハたれが上リといふことハそらんじておりますハ」
革鎧 かハぐそく 「かハぐそくハきがきかねヘやうだが きこなした形がいゝからかるいハ/\かろきミにこそたのミハあれと わかにもありやす」
大鎧 おほよろゐ 「大よろゐとハ チトおもひつきがわりい やれ/\おもい/\」
驛路鈴 えきろのすゞ 「たかまがはらにかミとゞまりますトいふやうだ」
軍配 ぐんばい 「にィしつるかめ/\ひがし宝来山/\ ヨ のこつた/\/\」
陣羽織
嗾?配 ざいはい 「かゝれ/\ありやァ/\/\ト いへ/\」
上リ 勝戦歸陣





2012年1月8日日曜日

"尚紅蓮" で検索

グレン・ショー「言葉テンヤワンヤ」: うわづら文庫@ココログ

うわづら文庫さんのグレン・ショーの短文(pdf)が面白かったので、現時点で "尚紅蓮" で検索してわかることをメモ。

ショー とは - コトバンク

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

ショー Shaw, Glenn W.

1886-1961 アメリカの日本文学研究家。
1886年11月19日生まれ。大正2年(1913)来日。大阪外国語学校などで英語をおしえ,戦後はアメリカ大使館文化担当官。戦争中をのぞき在日36年。その間,尚紅蓮(しょう-ぐれん)の名で俳句をつくり(句集「蟹水仙」),「出家とその弟子」「藤十郎の恋」「羅生門」などを翻訳した。1961年8月26日死去。74歳。ロサンゼルス出身。コロラド大卒。
【格言など】京のセミ幾億匹の暑さかな

『戦前期『週刊朝日』総目次』から - 神保町系オタオタ日記

(里見弴の著作)

昭和6年7月12日~11月8日 (英訳・尚紅蓮)「安城家の兄弟」

昭和7年4月17日 (英訳・尚紅蓮)「夜桜」

古書の森日記 by Hisako:KIKUCHI KWAN『TOJURO'S LOVE AND FOUR OTHER PLAYS』(1925) - livedoor Blog(ブログ)

訳者はGLENN W.SHAW。収録されているのは、タイトルの「藤十郎の恋」をはじめ「奇蹟」「敵討以上」「父帰る」「屋上の狂人」である。

写真でわかるように、かなり傷んでいてしみがついているため300円。口絵や挿絵は1枚もついていない。菊池寛のいい読者というわけでもないのだが、つい買ってしまった。日本人の名前の表記を姓名の順にするのか、ひっくり返して名前を先にするのかで、よく意見が分かれるが、この本は、表紙も中のとびらも「KIKUCHI KWAN」となっている。翻訳者のグレン・W・ショーの方針だったのだろうか。

グレン・W・ショーという人については、自序以外の情報は見つけられなかったが、大阪と山口の高校で英語を教えていたように思われる。国会図書館で検索してみると、倉田百三の『出家とその弟子』などいくつか日本の戯曲の英訳書を出しているほか、『OSAKA SKETCHES』という著書もあるらしい。

e-短冊.com / グレン ショー / 俳句

村山の上野上にも朝日出る 尚紅蓮

作者プロフィール

グレン ショー
(ぐれん しょー)
カナダの宣教師。トロント出身。トリニティー大卒。明治6年(1873)イギリス海外福音伝道会から派遣されて来日。聖アンデレ教会をつくり日本聖公会の指導者の育成にあたる。軽井沢を避暑地として開発、紹介した。明治35年(1902)歿、56才。

※プロフィールは「Shaw, Alexander Croft」のもの。コトバンクでプロフを探して私も勘違いしかけた。俳句の出所も怪しいかもしれない。

倉田百三

2.百三作品の英訳3点
(1) Shaw, Glenn W.  The Priest and His Disciples(『出家とその弟子』)
The Hokuseido Press, 1922.

日本は東洋西洋の興味ある焦点の一つである。この民族に何も心配はいらない。西洋の多くの影響の下にも、私は日本人が昔からの美へのあこがれをかたくまもっている姿を何度か目にしている。
自動車の渦巻く中を菊車   尚 紅蓮
グレン・ショー「西洋と東洋の興味ある焦点」
『日本人の道徳的心性』(1955)

ピアストーン:BLOG 〜維一郎の随筆〜: 野菜随筆二(西瓜)

(1955年の随筆らしい)

少し後の頃、神戸高商にグレン・ショウ(尚紅蓮)という人があって(今も健在でラジオなどに出る)週刊朝日に英語の短文を連載していた。中学上級生の勉強的読物だったが、それは随筆みたいな内容のものだった。「日本人は、西瓜を三日月型に切って、それにかぶりついて食う。(西洋人はどうして食うか今以て私は知らない)美しく化粧した日本の娘さんが、あれをやっているのを見ると――」と、ショウ氏が書いていたように思う。そして大阪の道頓堀の夜景を叙し「三日月型の内側をえぐった“西瓜の皮”が沢山流れている」と述べてあった。私は「ははあ“西瓜の皮の流れけり”だな」と思った。

A GUIDE BOOK to OSAKA ~国際観光都市 OSAKA~

6 Osaka sketches 浪華の足
Hokuseido Press 1929(昭和4)年 (221.3-1300)
冒頭に“City of Water”“City of Bridges”“City of Smoke”“Japan's Kitchen” “Industrial and Commercial Capital of Japan”と書かれており、大大阪時代の街の様子を写真や近世の『浪華の賑わい』なども引用して紹介しています。
著者のGlenn W Shaw はロスアンジェルス生まれのアメリカ人で大阪高等商業・市岡中学・今宮中学で英語を教えた教育者。日本文学の翻訳にも携わりました。戦後もアメリカ大使館に勤めた親日派で“Osaka sketches 浪華の足”の表紙では「尚 紅蓮」とも名乗っています。

Shaw, Glenn W. - Webcat Plus

大日本魚類画集 大野麥風著 西宮書院 1937.8-1940.9
羅生門 : 英和対照 芥川竜之介著 ; グレン・ショウ訳 原書房 1971
本日休診 井伏鱒二著 ; E.サイデンステッカー, グレン・ショウ訳 原書房 1971.3
本日休診 井伏鱒二著 ; E.サイデンステッカー, グレン・ショウ訳 原書房 1964.9
Shin Wiro by Glenn W. Shaw and Jiro Nagura Jūōsha, 1922
Clouds and Climate Change Glenn E. Shaw University Science Books, c1996
Short stories by R. Akutagawa Translated by Glenn W. Shaw Hokuseido Press, 1974, 1930
The priest and his disciples : a play by Kurata Hyakuzo ; translated from the Japanese by Glenn W. Shaw Hokuseido, 1969
Three plays by Yamamoto Yūzō ; translated from the Japanese by Glenn W. Shaw Hokuseido, 1957

2006-05-06 - 日本語関係の目次・索引など - 索引グループ

 『言語生活』第54号 昭和31.3 特集・試験時代
国立国語研究所監修
筑摩書房発行
定価 70円

言葉テンヤワンヤ 尚紅蓮(グレン・ショー)

里見弴・詳細年譜:猫を償うに猫をもってせよ

・12日~11月8日(英訳・尚紅蓮)「安城家の兄弟」『週刊朝日』

・17日(英訳・尚紅蓮)「夜桜」

戦前期週刊誌メディアの受容形態 ― その大衆性と戦争加担との関係に着目して(pdf)

また,広告だけでなく,創刊当初の『週刊朝日』と『サンデー毎日』にはグレン・ショウ(尚紅蓮)の英文小説(「浪華の足」『週刊朝日』1924 年 6 月 29 日号掲載)や英文の記事(「有島武郎氏の死(英文)」『サンデー毎日』1923 年 7 月 22 日号掲載)等も記事も掲載されており,これらのことも,両誌が実際にどのような読者層をターゲットとしていたかを不明瞭にしている.

表 8­2 からは,掲載総数は多いが,日中戦争を境に執筆数が大きく異なる人物がいることが分
かる.最も執筆数の多いグレン・ショウ(尚紅蓮)は,大正末期より英文小説を『週刊朝日』に多
数執筆しているが,1930 年代に入ると掲載記事はなくなり,『週刊朝日』誌上からも英文小説や
英文欄がなくなっている.6 章 6.4 女性関連記事のところでも触れたが,英文記事や英文広告,
英文小説を読める読者層は恐らく知識階級に限られていると考えられるため,英文小説が 1930
年代にはほぼ掲載されなくなったことからも,『週刊朝日』が誌面の「大衆化」を図った様子がう
かがえる.

                                           頁 巻号
26072 碧眼鏡(英文) 尚紅蓮 16 22-18, 1932(昭和7)年10月16日号 小説
26106 碧眼鏡(英文) 尚紅蓮 16 22-19, 1932(昭和7)年10月23日号 小説
26164 碧眼鏡(英文) 尚紅蓮 30 22-20, 1932(昭和7)年10月30日号 小説
26195 米利堅土産 尚紅蓮 12 22-21, 1932(昭和7)年11月1日号 娯楽
26196 碧眼鏡(英文) 尚紅蓮 14 22-21, 1932(昭和7)年11月1日号 小説
26237 碧眼鏡(英文) 尚紅蓮 16 22-22, 1932(昭和7)年11月6日号 小説
26256 米利堅土産 尚紅蓮 28 22-22, 1932(昭和7)年11月6日号 娯楽
26288 翠眼鏡(英文) 尚紅蓮 16 22-23, 1932(昭和7)年11月13日号 小説
26299 米利堅土産 尚紅蓮 34 22-23, 1932(昭和7)年11月13日号 娯楽
26329 翠眼鏡(英文) 尚紅蓮 16 22-24, 1932(昭和7)年11月20日号 小説
26369 翠眼鏡(英文) 尚紅蓮 18 22-26, 1932(昭和7)年12月4日号 小説
26407 翠眼鏡(英文) 尚紅蓮 7 22-27, 1932(昭和7)年12月11日号 小説
26451 碧眼鏡(英文) 尚紅蓮 11 22-28, 1932(昭和7)年12月18日号 小説

以上