2012年4月12日木曜日

水野年方先生 : [草稿] / 鏑木清方 [著]

水野年方先生 : [草稿] / 鏑木清方 [著] (現在非公開)




” さしむかひには、「先生」と呼びかけるけれど、人に話す場合には、「宅の師匠が……」さう云つたものだつた。あるひは今でもさう呼ぶ人があるかも知れないが、近頃では藝人の他あまり「師匠」といふ敬稱は用ひないやうだ。

水野年方先生は月岡芳年の弟子で、系統的には純然たる浮世絵師なのだから、先生と云ふよりは、師匠と云つた方が、ピツタリしさうなものだけれど、その態度、風采なり、気持なり、何としても師匠といつたふうではない、そのくせ神田育ちの素地(きぢ)は、夏の湯上りに派手な浴衣で、団扇を片手に、竹縁にあぐらでもかいてゐられると、常磐津を嗜み、河東も少しはいける先生の半面が、それは本名粂次郎の姿をちらと覗かせるふしがないのでもなかつたが、私が弟子入りした時分の、神田東紺屋町の住居を去つて、谷中清水町の新築した家へ移られた、明治二十九年あたりからは、すつかり江戸ツ子を清算して、横から見ても、竪から見ても、歴史画家、水野年方先生になりきつて了はれた。

先生が浮世絵出身でありながら、どうして歴史画に轉向されたか、それは先生の本来の趣味に依るのはいふまでもないけれど、内面的の藝術上の欲求の他に、當時の世間との外面的なひつかかりが、相當有力なものであつたことを閑却することは出来ない、

江戸時代の官学派、宮廷派としての、狩野、土佐、その以外の流派を學んだものは、均しく町絵師と呼ばれて、武士に對する町人と同じく、そこに身分の相違がやがて画格の高下とされてゐた。浮世絵といふのは、厳密にいつて流派とは云へないが、社会の風俗、遊里、劇場に材を求めた上からも、そのグループに属するものは、町絵師の中にも亦た一段格の下つたものとされて、それでも天明から寛政、享和、名工輩出した頃は実力に依つて気を吐いてゐたのだけれど、徳川幕府の威力の失墜と共に、江戸に生れたこの市民藝術も、没落の過程へと急ぐ運命に堕ちたのは已むを得ぬなりゆきであつた。

その中に獨り幕末から明治へかけて、巨匠月岡芳年が踏んばつてゐた。芳年の絵の上の教養は、今日の眼で見ればさう高いものとは云へないのだが、それは時代のせいで、若し芳年だけの腕を持つものが、もうニ三十年後れて出たらたいしたものだつたらう。絵はうまい。北斎を誉めてゐたといふがさうありさうなことで、北斎とも芳崖とも通ふところがある。芳年は好んで武者絵をかいた。遡ればこれはその師國芳の志をついだものである。されば年方先生の歴史画の絵の脈は、井草國芳に續いてゐるわけなのであるが、國芳はその同門で勢力を争つた五渡亭國貞の女絵に對して、己れを知つての武者絵かきとなつたといふ傳説は正しからう。芳年は性来の好みと師授と、もう一つは卑しめられた画格の向上、それはちやうど團十郎と黙阿彌が、史劇、當時のいはゆる活歴に向つたのと同じ途を踏んだもので、その傾向の好尚を代表する菊地容斎の「前賢故実」に學んだ跡も明らかである。

先生はその師のさうした傾向を殊に重んじて、画格の向上を殆んど一生の仕事とされたと云つてもよい程だつた。平常の業務とした挿画以外、自發的に作画される場合、展覧会への出品などは、十の中の八九までは歴史に取材され、忠臣、孝子を画くことを好まれた。その交友もだんだん硬い側の方へ移つて、その生活は、こらがいはゆる浮世絵の傳統に育くまれた人かと不思議に感ずるやうになつて行つた。そんなわけなので私などでも、先生の膝下に在つた頃は浮世絵といふのはどんなものか、又どんな人がうまいのか、その派に關する知識は何も知るところがなかつた。春信を知り、春章を知るやうになつたのは、全く先生の許を離れてから、それも久しい後のことである。

先生が完全に浮世絵から免れようとされた心もちはよく解る。それほど傳統を脱出しようとした先生が、ある時、幸堂得知翁から多数の黄表紙を借りて、當時塾生だつた故人池田輝方に冩させたこともある。私が清長を知つたのはその時で、輝方と二人で豊麗な筆致に一もニもなく傾倒した。
画格の向上は先生自身の生活の向上にも関係が深い。先生の父君は、野中吉五郎といつて左官の棟梁だつた。先生は前にも云つたやうに神田生れだけれど、父君は江戸つ子ではない。先生も若い自分はやはり父の職を業として左官の粂さんであつたのだ。

先生は色白のやさ形で、その自分の美男の俳優、市川權十郎によく似てゐた。子供の時から絵が好きで、十四の年に、根津にゐた芳年の内弟子になつたが、それは根津に廓のあつた明治十何年といふ時分、芳年は大松葉の幻太夫のところへ入り浸つて、家には米櫃に米もなく、借金取の言譯が先生の役といふ始末だつたが、先生は辛抱強い人だからさしてそれを苦にもせず、内弟子の勤めはこんなものと思つてゐたのだけれど、父君はカンカンに怒つて「俺の息子は絵を習ひにやつたんで、借金取の言譯にヤアやらねへ」といふので退げて了つて、仕事場へ連れて行き、家の職を継がせようとした。

後にその父君の話だつたが「色の白い粂次郎が、真夏の暑い日ざかり、炎天の下で真つ黒になつて働いてゐるのを見て、さる仕事場の旦那が、粂さんもあんなに好きな絵を止めさせられて、温和しい気質(きだて)に文句も云はず、ああやつて黙つて仕事をしてゐるいたいたしい姿をお前さんは何と見る、と云はれてしみじみ可愛さうになつて、又芳年先生へ詫びを入れて二度の弟子入りをさせましたよ」と折節の息子自慢に聴かせられたことがある。

神田の家といふのは塗籠づくりの二階屋で、始めは店に竈が並べてあつた。店の上下を除いては、奥は六畳の二階と、下が四五畳の畳が敷いてあるだけで、その奥二階が、先生の唯一の部屋で、画室でもあれば、寝室でもあり、内輪の客には客室でもあつた。

私の上つた時、先生は二十四五、御新造は年上であつた。奥さんと呼ぶ敬稱は未だその頃は行はれてゐない(明治二十四五年)。御新造を約めて「御新(ごしん)さん」と呼ぶ。先生の美男に比べて御新さんは決して美しい方ではなかつたが、伉儷睦ましく、何もかも先生の為めに、世間の付合ひ何やかや、御新さんが無口な先生を助けて切つて廻してゐられた。

四五人の小さい弟子達は、只さへ狭い六畳の間に、先生の机を正面に丁字形に机を並べて、版下の冩し物から習ひ初めるのであつた。先生の机は丈が低く、俎板のやうな形のもので、新聞や雑誌の挿画がこの机の上で作られた。縮緬の小裂れを集めた、御新さんが心づくしの肱突きに左の肱を托し、右の小指と無名指をつなぐ黒い布の指輪のやうなものを嵌めてかいてゐられる。私はこれも絵をかく上に必要なことなのかと思つて、家でこしらへてもらつて嵌めて行つたら、御新さんに「先生は小指がはねる癖があるので、ああやつておいでなのですよ」と云つて笑はれたことがある。左の小指の爪際が、筆の穂先をならすので、いつも黒光りに光つてゐるのが目についた。

先生が好きだつたのか、御新さんの方が好きだつたのか知らないが、いつも猫を飼つてゐられた。私の行く前から三毛の女猫がゐたが、先生の手ずさみに、ボール紙へ裃姿で、扇子を膝にかしこまつてゐる形がかいてあつて、首のところだけがくりぬいてある。そのくりぬいたところへ三毛の首を嵌め込む。猫はうるさいから首を振りながら、あとじさりをする。猫のからだはボールの蔭になつてちつとも見えないから、恰(まる)で猫が裃を着て動いてゐるとしか見えない。このいたづらは先生の創意かと思つてゐたら、芳年翁のところにも行はれてゐたといふことを後になつて聞いた。あるひはその又一時代前に、國芳あたりから始まつたのかも知れない。國芳は有名な猫好きだつたといふから……。

その時分御新さんはかういふことも云はれた。「先生はあんなに柔しくつて、皆さんにどんな失敗(しくぢり)があつても、小言一つ仰しやらないけれども、そんな時は御自分で、どんなにか、じつと辛抱してゐらつしやるか知れないんですよ。ほんたうはあれで酷い癇癪持ちなのを御自分でがまんしてゐらつしやるんで、それは體にわるいと思ふんですが、先生の辛抱強さつたら……。」

それはあながち私達への訓戒の方便とばかりは云へなかつた。まつたく先生は辛抱強い人であつた。どんなことでも耐え忍ぶ。當然なんとか自己の意見を主張するのが利益である場合にも、己れから口を開かうとはされなかつた。長上の無理にも決してさからふやうなことをされず、他から見ては歯がゆい程に、自分といふものを殺して居られた。

明治二十一ニ年頃のことだつたらう。未だ二十歳そこそこの先生は、やまと新聞社へ出勤して挿画をかいて居られたのであるが、尾張町にあつたその社の奥に、トタン家根の木片(こつぱ)普請の二階が先生の部屋に宛てられてゐた。四畳半の琉球畳が敷いてあつて、窓は小さく、土蔵と土蔵の間に建ててあるから風は通らず、日もささぬ。あまり暗いので天井にあかりとりの窓をあけたところが、そのあさがほから、日中はまともに日があたるので、夏の真晝などは、裸になつてゐても居たたまれぬといふのに、肌襦袢をキチンと着て、白地の絣の襟も寛げず、暑いとも云はずに仕事をされるので、他の社員たちから変人扱ひされたといふこともある。

神田時代の若かりし日の先生は、いつも明るく元氣であつたが、それは御新さんのすぐれて快活な氣性が、よく先生の氣もちを引き立ててゐたので、先生自身は決して陽氣な性分ではなかつた。

その頃、若湊といふ角力取がゐた。小結ぐらゐまで取つたかと思ふが、先生はこの力士が好きで、「若湊はさうたいして人氣もなく、大関になつたり、横綱は張れさうもないけれども、ぱつと人に騒がれて、その人氣が持ち堪へられずに幕から落ちるやうな力士ぢやない。画かきなんかも、一時花形と持ち上げられて、はでな盛りを見ようより、一生ぢみに目立たなくても、變らずに暮らせるやうにありたい。私(あたし)はそれで若湊が好きさ。」

二十五六の若盛りに、先生はさういふぢみな處世感を弟子に訓ゆる人であつた。

先生とは、陰と陽との組み合はせのやうであつた先夫人は、谷中へ移るとすぐ病没された。

先夫人に死別されてから、先生の家庭生活は甚だ恵まれざるものであつた。いざとなれば自分の意志を徹(とほ)すことに、意外に勇敢なところもあつたのだけれども、それはせつぱ詰まつた、ほんたうのどうにも抜きさしのならない、已むを得ない時のことで、さて押し切つて徹したあとの心のなやみ、それは心身を蝕ばむ苦しみとなつて己れを責める。先生の早世されたのも、まつたくかうした、あまりにも自分を抑壓されたことが因をなしたものであつたと云へる。亡くなつた御新さんの云はれたやうに、癇癪をじつと抑へる辛抱強さ、それはやつぱり先生の體の為めにはならなかつた。脳を疾んで逝かれた先生の終焉は寔に淋しく、追想は私の心を暗くさせる。

先生の画生活の中で一番緊張して居られたと思ふのは、先夫人の没後、谷中の家の移りたてに、明治三十年十月、日本画會の第一回展覧会へ、堀川御所の佐藤忠信を画かれた時分で、それまでは甞つて公開の展觀へ出品されたこともなかつたのを、夫人との別れ、挿画画家からの轉身、住居の変化、あれも、これも、先生の一生に豁然と時代を分けた機會にあたつて、まだ少年だつた池田輝方君に侍(かしづ)かれて、新しい画生活へのかしまだち。その頃の先生は、その生涯を通じて、画道の精進に最も潔く見えた時であつた。

「忠信」の絵はやはり先生の代表的な作であらう。その絵は 御物となつてゐて再び接する機を有たなかつたが、先年東京朝日の「明治大正名作展」で久しぶりにこの作を見て、いろいろとその當時のことが偲ばれたのであつた。

谷中清水町は大河内子爵家の邸内で、動物園のうしろの暗闇坂を境に、狐狸の巣窟のやうな密林で、物凄い古池があり、その池は一部分が今でも残つてゐるさうであるが、先生が新築をされる時分は、大きな椎の古木が池に蔽ひかぶさつて、あたりは竹藪が多かつた。

先生の画室は二階の六畳で、東は肱かけ窓で、上野の森を仰ぎ、南は縁側があつて掃き出しになつて居り、遠くは本郷臺が見晴らせるし、近くは今云つた古池を眼の下に見る、町家續きの庇間(ひあはひ)で圍まれた神田から移つては、都會の中とは思へぬ閑静さであつた。

併し先生は明るい光線を好まれなかつた。東の窓はいつも枝簾が下してあつたし、あたりの廣濶としたところに地を卜しながら、画室は採光に極めて不充分であつた。

「忠信」の絵は、画室の隣の八畳との隔ての襖を外してかいて居られた。忠信の忠義、それが先生のこの作の画因には相違ないのだけれど、先生の興味の中心は、脱ぎ棄てた紺糸縅の腹巻にあつたと云つてもよかつたらう。その腹巻は先生愛蔵の品で、先生はかうした武具甲冑のたぐひになみなみならぬ愛着を有つてゐられた。

何一つ道樂らしいもののない先生には、この武具の蒐集が一ばん樂しみであつたらしい。京橋の彌左衛門町にあつた武具を賣る店へは、紺屋町時代には私も使ひに行つたことがある。

松岡映丘君のまだ學生だつた時分、この「忠信」の腹巻のザクリと置いてあるのにひどく惹きつけられて、何度も見に行つたことがあると、これも名作展で、その絵の前に立つての昔ばなしであつた。”

「佐藤忠信参館之図 水野年方 1898年」 武者絵の精紳(こころ) その5:イザ!


※早稲田大学図書館古典籍総合データベースで見つけて文字起こししたもの。残念ながら現在は非公開。
※最近になって「銀砂子」の原稿であると知った。
※図書館送信資料なので内容を確認。ほぼ原稿の通りだが、数カ所のルビの指定は採用されていないし、原稿では略字である「画」などは「畫」に改められている。文字起こしの際のミスもあるかと思うので、引用する際は御注意ください。
※「素地(きぢ)」、「気質(きだて)」、「失敗(しくぢり)」、「木片(こつぱ)」、「徹(とほ)す」、などで清方の言葉遣いを、「私(あたし)」で弟子に話しかける時の年方の自称を知ることができる。
※そんなわけで物言いがつかない限りは公開しておきます。
※鏑木清方は1972年(昭和47年)、93歳没。

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