2018年8月31日金曜日

多核種除去設備等処理水の取扱いに係る説明・公聴会(富岡会場) 福島県漁連会長 意見表明

多核種除去設備等処理水の取扱いに係る説明・公聴会 (METI/経済産業省)

http://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/osensuitaisaku/committtee/takakusyu/setsumei-kochokai.html

≪富岡会場≫ ・当日表明する意見の概要(PDF)

http://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/osensuitaisaku/committtee/takakusyu/pdf/HPup3rd/iken1.pdf

多核種除去設備等処理水の取扱いに係る説明・公聴会(富岡会場 動画)

http://www.ustream.tv/channel/4sXWB6khpu3

平成30年8月30日 福島県漁連会長 意見表明 1:53:30~

※かっこ内は「当日表明する意見の概要」に含まれていない部分。動画より文字起こし。

(福島県漁連の野崎でございます。本日はトリチウムの性質、トリチウムの処分方法についての技術的考察、トリチウム処分についての社会的影響及び対応についての考察等、トリチウムタスクフォース及び小委員会の委員の方々のご努力、多年に渡る御議論を踏まえて、議論の取りまとめの中間段階における公聴会であるという位置付けで意見を表明させていただきます。本当に御苦労さまでございます。まず福島県漁連としては)

【意見】

ALPS処理水の取扱については、広く国民的な議論を経て国が判断し、国がその責任を負うことを明確にすべきものである。
国民的議論が行われておらず、国民(や未だ輸入規制を継続している諸国)の理解を得られていない現状では、福島県の漁業者として、ALPS処理水の海洋放出に強く反対する。

(これが県漁連の意見でございます。その理由として5点ほど挙げさせていただきます。)

【理由】

①これまでの放射性物質モニタリングの結果、ここ3年間、海産魚介類から基準値を超える検体の出現がなく、漁業関係者は、時間の経過とともに確実に放射性物質の影響が低下していることを実感しつつ、試験操業の規模拡大に取組んでいるところである。
(本年ではまだ水揚げ量は事故前の2割程度でございます。しかし国内における未だに風評被害があり、国外においても輸入規制を継続している諸国がある中)
このタイミングでのALPS処理水の海洋放出は、福島県の漁業に壊滅的打撃を与えることは必至で、これまでの努力と再興意欲を完全に奪ってしまうものである。
(加えて基幹産業は、その数倍程度の関連産業を産み出すと言われており、福島県の浜通りの復興においても漁業の復興は重要であり、福島県の漁業に壊滅的な打撃を与えることは福島県の復興に壊滅的な打撃を与えることと同義であると考えます。)

②汚染水対策である地下水バイパス、サブドレン排水の実施協議の際、福島県漁連からはALPS処理水の取扱について「発電所内のタンクにて責任を持って厳重に保管管理を行い、漁業者、国民の理解を得られない海洋放出は絶対に行わないこと」と要望し、東京電力からは代表執行役社長名で「多核種除去設備で処理した水は発電所敷地内のタンクにて貯留いたします。」との回答を。
経済産業省からは経済産業大臣臨時代理国務大臣名で「関係者の理解なしには、いかなる処分も行いません。」との回答を得ている。
(このように福島県の漁業者は海側遮水壁のためのバイバス事業、凍土壁のためのサブドレン事業を、ひとえにALPS処理水の海洋放出を避けるためタンク保管を前提にして協力してまいりました。ちなみにバイパス・サブドレン事業における地下水の海洋放出は、放射線量管理の元、いっさい希釈は行わず規定の放射線量以上の地下水はタンク保管をしているのが現状でございます。)
さらに、第3回廃炉・汚染水対策関係閣僚等会議にて決定された、中長期ロードマップには、「液体廃棄物については、地元関係者の御理解を得ながら対策を実施することとし、海洋への安易な放出は行わない。海洋への放出は、関係省庁の了解なくしては行わないものとする。」と記載されている。

③国はトリチウムの安全性を強調するが、そもそも一般人が放射性物質に関する情報に接するようになったのは、原発事故が契機であり、未だ十分な知識を有していない。
また、専門性が非常に高い分野であることから、放射性物質についての性質や特徴、危険性について、正しく国民に認識されているとは言えず、仮に1000 兆ベクレルもの大規模海洋放出となれば、その数値の大きさだけが先行し国内外で混乱を来し、風評被害を惹起するのは必至である。
我々は、風評の払拭には想像を絶する精神的、物理的な労苦を伴うことを経験している。
ALPS処理水の海洋放出は、試験操業という形で地道に積み上げてきた本県水産物の安心感をないがしろにし、魚価の暴落、漁業操業意欲の滅失、ひいては漁業関連産業の衰退等を招き、福島県漁業に致命的な打撃を与える。
正に築城10年、落城1日である。

④今般のトリチウム水タスクフォースで検討された5つの処分方法、地層注入・海洋放出・水蒸気放出・水素放出・地下埋設は、廃炉作業において初めて能動的に放射性物質を環境に放出するものであり、国民的議論は必須である。
(本タスクフォースは、検討が開始された時期には、タンクからの汚染水漏洩が頻発し、また汚染水発生量が多く、タンクの空き容量が逼迫していた時期でもあり、タンクの汚染水保管という選択肢はあらかじめ外されております。しかしその後、タンクは強固な溶接型に置き換えられ、管理体制も整ったことから、現在ではタンク保管が最も風評被害のリスクが少ないものと考えております。)
「廃炉の進捗及びリスク低減のためのエリア確保等の必要性」という主張をもってALPS処理水の処分を論じるのは、余りに唐突であり泥縄感が否めない。
デブリの保管場所については廃炉における最重要課題であり、ALPS処理水の処分と同時並行的に検討するという記載はロードマップにはない。

⑤ALPS処理水処分については、国民的議論が前提であり、
(福島県の漁業者が反対しているため、ALPS処理水の処分が進まないということが広く言われておりますけれども、)
福島県の漁業者だけで判断すべき問題では無く、広く国民へトリチウム発生のメカニズム、危険性を説明し、取扱に係る国民的議論を尽くし、国民の信頼(や未だ輸入規制を解除していない国の理解)を得た上で国が判断し、その責任を負うことを明確にすべきである。

(以上、御清聴ありがとうございました。)

※国により公聴会表明意見のテキストが公表された場合は、記事を削除します。

2018年3月31日土曜日

岩代國南會津郡大桃村鱒瀧之圖

新日本古典籍総合データベース / 水産小學
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100249682/viewer/1

岩代國南會津郡大桃村鱒瀧之圖
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100249682/viewer/40


“岩代國南會津郡大桃村に、鱒瀧と唱ふるものあり、此ものハ高さ二丈餘の大瀧に、藤蔓の袋網二ツ三ツをつりをき、鱒登らんとして、登り得ず、中途より落るもの、皆此袋に入るを捕るなり、此瀧に魚ばしごを設け、或ハ鱒鮏の種川となし、魚苗の繁殖をはからバ、尤よろし、又擬虫といふ一種の鮏釣あり此ものハ、華麗なる鳥の羽、或ハ獸の毛を以て、魚の常に好むところの、羽蟲と誤り認めて呑ましめ、餌を用ひずして捕るものなり、”

2018年3月30日金曜日

水産小學 河原田盛美 著 明治15年(1882年)

新日本古典籍総合データベース / 水産小學
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100249682/viewer/1

人為にて魚卵を魚にかえす仕方ハ古へよりひらけたりや
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100249682/viewer/108




◯人為接合の術を施し、魚卵を孵化する法ハ、西洋紀元前二千百年代の頃、創めて支那に起り、其來る久しといへども、無經に属し、只其名目を存せしに過きず、然るに其法の漸々歐米各國に行はれしより、日に精巧を極め、數種の魚を彼此移養し殊に鮏・鱒の如き、佳種を繁殖せしめ、大に國民を裨益するに至れり、我邦に於ても、其方法を傳習し、先づ試みるに鮏鱒の二種を以てし、現に其孵化生育の結果を得るに及べり、鮏魚ハ、卵を産んとするに先ち、河に溯り、八月中旬より、河水に在り、十月下旬より、十二月上旬まで、に、卵を産むものとす、又鱒魚ハ、卵の熟するが故に、鮏魚よりも、河水に居るの日久しく、大抵春三月下旬より、河に溯り、九月下旬より、十月に至り、卵を産す、故に産卵の季節ハ、稍相異なれども、成熟の景況、雌雄の區別及び、接合の術孵化成育の方法等?、鮏鱒の兩魚粗ぼ同しきものとす、又此兩魚ハ、池に畜養し、成長の後ち、河に放ちて、繁殖せしむるを得るものとす、而して、其産卵の季節に迫れば、形状憔悴し、全體黒色を帯び、腹部に紅紫黒の斑文を現ハし、雌魚ハ、陰孔墳起、腹部膨脹して、蚤形を為す、指頭を以て之を按すれバ、腹中にて、卵の動揺するを覺へ、雄魚ハ、唇肉減じ、齒形鋭く、其状自ら雌魚より威あり、故に一目して、其雌雄を辯ずるを得べし、既に斯の如き景況に至れバ、人工交接の術を、施し、卵を得るに適するの季とす、故に一個の水糟を備へ置き、其一槽にハ、雌魚を入れ、一槽にハ、雄魚を入れ、雌雄を別ちて養ひ置き、母魚の良否及び熟不熟を撰ミ、魚を驚駚?せざるやう、先づ雌魚を捕へ、甲ハ雙手を以て、頸より顋下を握り、乙は尾部を握り、丙は拇ト食指の加減を以て陰孔より卵を按出するやう、徐に魚腹を撫下して、卵を皿鉢の如き器の内へ産ましむべし、此際に魚の潑刺する時ハ、魚體整はず、卵の出でざるものなれバ、能く魚の静止するを認め、て、其腹を撫下すべし、卵を産ましめし後ハ、直ちに雄魚を捕え、前に同じき仕方にて、其の精液を卵上に洩らさしめ、嫩柔なる刷毛、又は鳥羽を以て、卵と精液とを、能く調和し、少しく清水を注ぎて、徐に之を攪拌すべし、精液乍ち、卵に感觸し、卵ハ恰も、橙子色を現ハすに至るべし、是れ即ち、精液の卵中に迸射し、接合の成りたる徴とす、而して、水を充分に、卵上に注加し、二十分時間を經たる後、更に其水を換へ、卵に貼着せし、液汁を能く洗去り、之を孵卵器に移し、水に浸すべし、水ハ晝夜間斷なく、流通せしめ、瞬時も、涸せしめざるを専要とす、又其孵卵器ハ、陶造木製の、各種あれども、扁・柏・杉等の板を以て水凾を造り、木脂を防ぐ為め、木膚を焼き、或ハ之に吧嗎油を塗るを簡便とす、其凾の底にハ、砂礫を敷き、其上に卵を並べて、凾の上端より水を注ぎ入れ、其下端より注ぎ出さしめ、常に水を過不及なく、凾内に循環せしめ、且水垢及び、有害物を除く為め、別に漉水槽を設け、水の其槽を經過して、孚卵凾に注くやう、装置すべし、而して護模製の氣管を以て、時々卵を掃除し、總て清潔なるを要す、斯くの如して、晝夜を論せず、育養する時ハ、全く感觸せし卵ハ、日を經るに從ひ、淺紅色を帯び、漸に膨脹して、頗る堅實なるを覺ゆれども、感觸せざる卵ハ、次第に黄白色を催し、濁白色に變じ、遂に死に至れり、卵の生死ハ瞭然之を辯明するを得可く、又死卵病卵ハ乍ち腐敗して、他の卵に傳染し、健康を害するの懼れあれバ、把卵器を以て、死卵を除棄すべし、接合術を施せしより、凡三週間を過ぐれバ、卵中に血條を生し、小黒點を現出す、是即ち魚眼にして、必ず孵化すべき徴證なり、此卵を他處に運搬するにハ、此時を以て適期とす、其搬運の法ハ、水苔を以て、之を凾詰にす、而して凾ハ其類種々あれとも、最も容易なるハ、長さ一尺四五寸、幅八寸、深さ四五寸とす、鮏卵なれハ、一列に、大約二千餘を並べ、凾の四面に空氣を流通せしむる為め、數個の孔を穿ち、その底にハ、塵芥なき、柔嫩なる水苔を濕ほし、之を敷き、其厚さ凡一寸許、又其上に柔嫩なる麻布を敷き其上に卵を重畳せざる様、一列に並べ、又更に前の如く、水苔と麻布とを敷き、以て卵を並べ、此の如くする凡三層とし、此凾數個を適宜に組み重ねて一荷と為し、更に外套を以て覆ひ、外套と内凾との間ハ、四方二寸許の空隙を存し、是に填するに栗・櫧・蕨等の枯葉を入れ非常の寒暖に觸れしめざるやうにすべし、また搬運の際務て、其箱を激動ならしむべからす而して、運搬の地に達せし時ハ、直に凾中の卵を、孵化器に移すを良とす、若し装置の未だ完整せざる時ハ、該当の儘、風日の映觸せざる所に置き、頓て孵化器に移養するも妨げなし、魚卵の孵化して、魚?(魚偏に米)となるときハ其臍に、嚢様の胞衣ありて、内に天賦の滋養物を有する為め其胞衣の存する間ハ、縦令餌を與ふるも食ハす、常に水底に安息す故に之を食嚢と稱す、而して其胞衣ハ漸に減少して、凡五六週間を經るときハ、全く消収し、魚?(魚偏に米)自ら養器を游泳して、餌を需るが如き徴を現はす、其時始めて、餌を與ふべし、其餌ハ、鶏卵を煤煮し、其卵黄を與へ、或ハ牛の肝臟腎臟を能く煮熟し、細末とし、又は、蚕(夕に虫)蛹粉を、牛肉及び、卵黄に和したるものを最も良とす、而して更に日を逐び、成長、多量の餌を要するに至れば蚕蛹粉を、小麥粉と煉り合せ、滾湯中に投して、能く煮たる後に、細粉となして與ふ可し、鮏・鱒ハ、元來動物を食と為すものなれバ、孑孑・蚯蚓・蝌蚪及び、其他の水虫を嗜み食ふべし、餌を與ふる頃に至れバ、大なる育魚凾に移養し、生長して、凾内稠密なるに至れバ、之を池水に放ち養ふ可く、その育養ハ、池の廣狭と、其湧水の多少とに由り、魚數自から限りあれども、初めの半年間ハ、一坪の池水に、平均千尾より、二千尾を養ひ、後の半年間ハ、五百尾以上を養ふべし、故ニ次年三年に至れバ、皆此割合に從ひ、其尾數を減ぜざるを得ず、満一箇年を經れバ、大抵八寸より一尺餘に成長すべし、然れども、之を河水及び、死水に畜養する時ハ、氣候に感じ易く、且暑氣に至れバ、其水の暖に過ぎ、適宜の度を失ふものとす、故に、華氏驗温器六十度以下、四十度以上の、湧水を擇み用ふべし、また之を河流に放ち、繁殖せしむるにハ、春季三月より、五月に至る頃、河水中に餌物の生ぜしときをよろしとす、又養魚室ハ、水源より、稍低所に設け、その距離方向を圖り、適宜に、水を、其室内に導く様、建築せざれバ、諸機械を排列するに不便を生するものなり、其室内にハ、烈しく光線の映射するを忌み、且つ、水獺・鼬鼠・等の外患を豫防すべし、其諸機械を製する木材ハ、浮爛・羅勒・扁柏・杉等を吧嗎油にて塗り、又ハ焼焦すべし、而して養魚室を設くる地ハ、斜傾にして、池水の能く流通し、且つ池を増設するに便なる所を良とす降雨其他水害の為め、汚水の注流する患あるときハ、週圍に溝渠を穿ち、以て之を防ぐべし、

※孑孑(ぼうふら)
※蝌蚪(かと オタマジャクシの別名)

2017年5月19日金曜日

うんつくらいの翁(印旛郡宗像村)

国立国会図書館デジタルコレクション - 日本伝説叢書. 下総の巻

 昔々、慈善心の深い一人の老農があつた。或日、霜を踏んで麥圃を耕してゐる時、一羽の雀の、將に凍死しやうとするのを見つけて、可哀さうに思つたので、呼氣に暖めて介抱してをつたところ、突然腹中に飛び込まれてしまつた。老農は百方苦心したけれども如何ともする事が出來ない。其時、遽(にわか)に放屁を催して、つひ一發放つたところが、不思議にも其屁の匂ひのよいこと、殊に其音ときたら、全くの美音で、『うんつくらいうんつくらいぶう』と響いて、恰も天女の奏樂のごとく、香氣と共に復郁として四邊に薫じ響いた。その音、その匂、全く人をして坐(そゞ)ろに恍忽の思ひあらしめるといふので、即ち太守某に徴し出され、發砲一番を命ぜられた所、風聞の如く、妙音芳香之極りなかつたので、乃ち名をうんつくらいの翁と命じ、金品を賜ふて之を賞せられた。ところが、貪欲なる鄰家の老翁は、之を聞いて妬羨に堪へず、わざと雀を捕へて、強いて燕み下し、心窃に恩賞を期してゐた。即ち折をはかり、太守に申して、謁見發砲を命ぜられた。處が彼が放屁すると、異様の音響と共に出でしは名聲ある翁とは眞赤ないつはり、似もつかぬ臭氣紛々とした汚穢物であつたので、太守は勿論從士齊しく鼻を掩ひながら、憤怒の餘り、此翁を獄に下して、嚴罪に處したといふことである。(口碑)

2017年1月10日火曜日

通販生活 2017年春号

「落合恵子の深呼吸対談 第27回」 ゲスト 小泉純一郎


(2013年8月にフィンランドの「オンカロ」を視察して)

小泉 岩盤を400メートルも掘って、頑丈な筒に入れた核廃棄物を2キロ四方の広場に埋める。しかも、10万年以上保管しなければならない。この施設を見て「地震や火山の多い日本で、こうした方法は無理だ」「原発は一刻も早くやめないといけない」と、さらに確信したんです。それで帰って来て毎日新聞の記者に話したら、突然8月に「小泉、原発ゼロに」という記事が出た。そこから、すごい反響があってね。

落合 どのような反響が多かったのですか。

小泉 原発に反対する学者や運動家が、もう読み切れないほど本を送ってくれた。「これを総理になる前に読んでいれば・・・」と後悔しましたよ。

2014年11月29日土曜日

古加葡萄酒(コカワイン)広告冊子

Shokubutsu Zusetsu Zassan / Ito Keisuke
植物図説雑纂. [157] 伊藤圭介 編著 江戸末期-明治時代
古加葡萄酒(コカワイン)広告冊子 田中古加葡萄酒製造所 西島屋宗三郎 1890年頃?

国立国会図書館デジタルコレクション - 植物図説雑纂. [157] コマ番号86/149



"鹿印の商標に御注意を乞ふ Strengthener of the Entire System AND Renovator of the Vital Forces. Specially Prescribed in Cases of Brain Exhaustion, Nervous Depression, Sleeplessness, Nervous Debility, Convalescence, Voice Fatigue."

"南亜米利加産古加葉之圖解 ERYTHROXYLON COCA."

"TONIC COCA WINE 健胃強神 古加葡萄酒 佛國名産 衛生家必要之飲料 本店横濱 西嶋屋"

"抑モ此古加葡萄酒ト稱スルハ近世新奇ヲ争フ數多ノ藥物中ニ於テ尤モ其効顯ノ著シト言ハルゝ古加ノ葉ト精良純粹ナル葡萄トヲ以テ製造シタルモノナルガ故日常ノ飲料トシテ缺ク可カラザルノミナラズ少シク虚弱ノ人ニアリテハ滋養強壮ノ藥劑トシテ其効顯殊ニ著シキ事神ノ如シ是レ弊店ガ故ラニ是ヲ發明工夫シテ發賣スル所以ナリ、夫レ人ハ病ノ器ナリ、然ルニ此器ヲ以テ常ニ無病ヲ希ヒ強壮ニシテ疲勞セザルヲ欲スルノミナラズ日々立チテ働キモシ又ハ座シテ考ヘモシ身ノ為メ、人ノ為メ、貨財(カ子)ノ為メ、苦勞ヲ凌ギ、艱難ニ堪ヘテ尚ホ倦マザルヲ望ムノ人ハ日ニ増シ月ニ多キヲ致セリ、是レ今日ノ時世、氣運ガ然ラシムル所ニシテ詰ルトコロ世ノ文明進歩トハ人事ヲ多忙ニシテ身體ヲ忙ハシク為スモノト云フテ可ナルベク西洋ノ諺ニモ人生大名ヲ為サント欲セバ強キ胃ノ腑ヲ要スト云ヘル如ク時世ト共ニ進ミ行ク農工商ハ勿論、公共ノ事業、政治ノ事等千變萬化雜駁頻繁ノ中ニ處スルニハ所謂病ノ器ノ中ヘ決シテ病ヲ納ルゝ事ナク苦勞艱難ニ遭遇シテモ更ラニ疲勞ト衰弱ヲ招カザルノ要愼コソ處世第一ノ努メト云フ可シ、英吉利ノ國會議員ハ三日ニ上ゲズ徹夜ノ會議ヲ為シテ驚カズ亞米利加ノ蒸滊列車ヲ運轉スルノ機關士ハ一萬哩ヲ三日ニ旅シテ恐ルゝ事ナク直チニ再ビ引還スガ如キ文明人ノ劇職ニ耐ユルハ實ニ感心ナリト雖モ彼等ノ肉體トテ病ノ器タルハ同ジ事ナリ唯日常ノ心掛ケ怠ラズシテ常ニ病ヲ近ヅケザルニ努ムルノミ即チ英國ノ議員ハ精良ナル葡萄酒ヲ議院内ニ用ヰテ疲勞ノ時ノ興奮劑トシ米國ノ機關士モ同ジク是ヲ用ユト云フ、歴史ニテ有名ナル英國ノ大宰相ウヱリアム、ピットハ二十三歳ニテ總理大臣ノ席ニ立チ當時歐米大争亂ノ混亂ニ處シテ晝夜一睡モ為サズ政機ヲ握リシ人ナルガ、此ノ人絶エズ葡萄酒ヲモテ劇務ノ疲勞ヲ助クルノ料ト為セリト精良ナル葡萄酒ガ人身ニ有益ナル事斯ノ如シ、然ルニ又此純良ナル葡萄酒ニ混和スル古加葉ト稱スルモノハ前ニモ述ブル如ク近來發明ノ強壮劑中無比ノ良品ニシテ曾テ西班牙盛大ノ頃南北亞米利加ヲ併呑シテ頻リニ土人ヲ攻伐シタルニ南米ニテ第一ノ強國タル秘露及ビ玻里比亞ノ土人ハ連戰日ヲ重子テ降伏ノ色ナク陣列少シモ疲勞ノ姿ヲ顯ハサゞリシカバ西班牙ノ軍勢モ殆ンド根氣負ケヲ為サントスルニ立至レリ然ルニ此時南米ノ土人ガ何故ニ斯クモ根氣能ク對陣シタルカト云フニ彼等ハ陣中ニテ此古加ノ葉ヲ煎ジ其飲料ト為セシノミナラズ兵士ハ孰レモ其葉ヲ懐中シテ以テ勇氣ヲ勵マスノ藥料ト為シタルガ為ニシテ是ヨリ古加葉ノ名ハ一時ニ歐洲ニ廣マリ根氣ノ藥トシ又強壮劑トシテ一般ニ用ヰラレシガ其後英國人ノ再ビ秘露ニ入リテ鑛山ヲ創メタル者ガ土人ヲ使役シテ高山ニ登ラシメタルニ彼等ハ更ニ恐ルゝ色ナク歐洲人ノ登リ能ハザル峻坂ヲ攀ヂテ空氣稀薄ノ頂ニ上下スル事平坦ノ地ヲ歩ムガ如シ依テ英人ハ是レニ驚キ其原因ヲ糺シタルニ全ク古加葉ヲ懐中シテ氣息逼塞セル時用ユルナリト答ヘタリ是ニ於テカ前ノ評判ハ益々高クナリテ今日歐米ノ人民ハ一般ニ是ヲ用ヰザル者ナク醫師並ビニ學者等ハ皆口ヲ揃ヘ其効顯ヲ賞讃シ當時文明ノ氣運ガ蒸氣電氣ノ發明ヲ促シテ人事ノ繁忙ヲ加ヘタルニモ拘ハラズ日常劇務ニ當ルノ人ガ衰弱疲勞ヲ顯ハサゞルハ全ク古加葉ノ恩恵ナリト云フニ到レリ、古加葉ノ靈顯ナル實ニ又偉大ト云フ可シ、左レバ我國ニテモ日ニ世事ノ繁忙ニ進ム折抦此古加葡萄酒ヲ日常ノ飲料ト為スハ根氣ヲ養ヒ、精神ヲ爽ニシ忍耐力ヲ勵マシ記臆力ヲ增シ筋肉ヲ強壮ニシ衰弱ヲ防ギテ寒暑ノ邪氣ヲ攘フガ為メ最モ必要ノ事ト云フベシ、今左ニ古加葉ノ藥劑トシテ殊ニ靈功アリシ成蹟及ビ諸大家ノ學説ヲ掲ゲンニ
古加ハ元來 Erythroxylon Coca ト呼ベル灌木ニシテ秘露及ビ玻里比亞ニ産シ其葉ハ馥郁タル香氣ヲ保チテ稍苦味アリ南米ノ土人ハ常ニ興奮劑并ニ營養劑トシテ是ヲ咀嚼シ飢渇ヲ癒シ困憊ヲ救フノ料ト為セルガ是ヲ病人又ハ健康體ノ人ニ用ユルニ左ノ如キ効能アリ
(1)演説家及音樂家ノ美音樂
(2)音聲氣管諸病ノ恢復期
(3)相撲其他過劇ノ勞働ニ從事スルモノ
(4)船中又ハ滊車中頭痛眩暈嘔吐等不快ヲ感スルトキ
(5)嚴寒ノ候又ハ濕潤セル空氣中ノ勞働者
(6)夜中不眠ノ習癖アルモノ
(7)神經系統ノ衰憊セルモノ
(8)生殖器系統ノ衰弱セルモノ
(9)筋肉及一般ノ衰弱
(10)記臆力ノ减却セルモノ
(11)頭痛及凡テノ神經痛
(12)胃痙、疝痛、及凡テノ消化不良
(13)阿片、アルコール、煙草等濫用ノ為メ自然ニ身體疲勞セルモノ
(14)肺結核熱性諸病種々ノ原因ヨリ發スル齒齦及口内炎凡テノ貧血症
(15)重症患者ノ恢復期
(16)神經衰弱症及神經系ノ過敏ナルモノ
(17)精神ノ抑壓セルモノ欝憂病、ヒステリー病
(18)中年以上ノ早衰ヲ防ギ而シテ強壮ヲ保持ス
(19)諸種ノ源因ヨリ來ル嘔吐及下痢
以上ノ諸症ハ孰レモ古加ノ効顯ニ依リテ強壮舊ニ復シ又活氣以前ニ倍トナルモノ少ナカラズ
英國ニテ有名ナル藥物書ノ著述家ドクトル、リンガー氏ハ其著ハセル書中特書シテ曰ク「古加ハ體内組織ノ變化ヲ制限スル作用アルヲ以テ肺結核ニ卓効アルノミナラズ凡テノ熱性諸病ニ用ヰテ効力顯著ナリ、傳染性諸病ニハ是レガ豫防劑トシテ有益無上ノ品ナルベシト
英國名醫アルチボルトスミス氏ハ古加ノ効能ニツキテ「能ク神經力ヲ盛ニシ精神ノ疲勞ヲ去リテ爽快ナラシムルノ効アリ」ト云ヒタリ
英人ドクトルウヱッデル氏ハ古加ノ興奮力ヲ述ベテ「其興奮力ハアルコールノ如キ過激ノ性ヲ帶ビス且ツ反動力モ起サゞルガ故温和ニシテ久シキニ耐へ得ルガ上茶又ハ珈琲ノ如ク睡眠ヲ妨害スル事ナク全身ノ神經系統一般ニ波及シテ是ヲ爽快ナラシム可シト
獨逸ニテ有名ナル生理學者ピヨピン氏ハ「古加ハ神經系刺戟藥ニシテ善良ナル滋養物ナリ」ト云ヘリ
佛人フンボルト氏ハ三歳ノ童兒モ是レヲ知ラヌモノナキ有名ノ探險者ナルガ曾テ南米ニ旅行シテチンボラソート云ヘル高山ニ登リシ時其從僕ノ木葉ヲ噛ミテ更ニ疲勞セザリシニ驚キ其理由ヲ尋ネタルニ全ク古加葉ノ効能ナル事ヲ知リ得タリ
又歐洲第一ノ旅行者チユヂー氏ハ一人ノ僕ノ一方ナラヌ勞役ニ從事スルニモ拘ハラズ五日間單ニ古加葉ノミヲ食シ日々二三時間睡眠スルノミニテ五日ノ後重荷ヲ負ヒテ二十三哩ノ遠路ヲ往クヲ見タル事アリト云フ
古加葡萄酒釀造元 横濱田中古加葡萄酒製造所
古加葡萄酒發賣元 横濱市境町壹丁目十番地 西島屋宗三郎 (電話番號二百八十七番)"

2013年2月3日日曜日

原子力規制庁が経済団体の意見書を受領

※以前、田中俊一氏はこういうことを言っていた。

田中委員長、再稼働要請断る 原子力規制委「独立守る」 - 47NEWS(よんななニュース) 2012/10/10 19:16   【共同通信】


“ 原子力規制委員会の田中俊一委員長は10日の記者会見で、原発の早期再稼働などを求める地方自治体や経済団体の要請や陳情に関し

「地方でも中央でも規制委の独立は守りたい。要請文を持ってきても受け取るつもりはない」

と述べ、断る方針を明らかにした。

 田中氏は

「要請文を受け取っただけでも、政治的な関与が否定できなくなる。そこはけじめをつけていきたい」

と強調。再稼働の前提になる安全審査では、地域の電力需給や経済の状況を判断材料にしない方針を重ねて示した。

 北海道の経済団体などは9日、北海道電力泊原発の早期再稼働が必要として、規制委に要請機会の設定を打診したが、規制委側が断った。”


※ところが・・・

原発再稼働で規制庁に要望書 九州経済同友会 :日本経済新聞 2013/1/30 0:52

“ 九州経済同友会の石原進代表委員らが29日、

原子力規制庁(東京・港)を訪れ、同庁の森本英香次長に原子力発電所の早期再稼働などを要望する意見書を手渡した。

経済団体が規制庁を直接訪れて原発再稼働を訴えたのは今回が初めて。


原発の再稼働を 九州経済同友会 - MSN産経ニュース 2013.1.30 02:20


“ 九州経済同友会代表委員の石原進JR九州会長は29日、経済産業省と原子力規制庁を訪れ、

速やかな原発再稼働と、新たなエネルギー基本計画の策定を求める意見書

を提出した。

 意見書は、茂木敏充経済産業相と原子力規制委の田中俊一委員長に宛てた。





※原子力規制委員会は経済団体の要請・陳情を受け付けることにした、と考えてよいのだろうか。

原子力規制委の独立性に疑問 経済団体が再稼働要望 - 47NEWS(よんななニュース) 2013/01/29 20:45   【共同通信】


“ 経済団体が規制庁を訪問し、再稼働を要望するのは初めて。原発の安全性をチェックする規制機関の規制委は独立性を重視し、経済団体などからの要請書などを受け取らない姿勢を強調してきただけに、今回の対応は疑問視されそうだ。

 九州電力会長も九州経済同友会幹部を務めているが、規制庁は「規制に関する意見が含まれていたため、規制委の立場を説明する機会として面会した」と説明している。”



2013年1月25日金曜日

廃炉作業の随時評価重要 田中原子力規制委員長インタビュー

廃炉作業の随時評価重要 田中原子力規制委員長インタビュー | 東日本大震災 | 福島民報 2013/01/25 11:19

“ 原子力規制委員会の田中俊一委員長(68)=福島市出身=は24日、福島民報社のインタビューに応じ、東京電力福島第一原発の安全対策について、廃炉作業の進行に併せた随時の監視・評価が重要との見解を示した。規制委が策定中の過酷事故対策を盛り込んだ新安全基準は「適用対象外」と言及した。”


※福島民報2013年1月25日4面に掲載された記事。質問と回答部分がweb上に無いのでメモ。

“ 福島民報社のインタビューに応じた原子力規制委員会の田中委員長は東京電力福島第一原発の原子力災害対策重点区域の範囲について「判断には時間がかかる」とし、設定の在り方を県と協議する意向を示した。福島第二原発の再稼働については「住民の意向から困難」との考えをあらためて語った。

 ―福島第一原発の安全対策への考えは。

 「廃炉作業中の原子炉では、七月の施行を目指している原発の安全基準は当てはまらない。廃炉作業のリスクを減らすために特定原子力施設に指定し、安全確保を評価・監視する態勢にある。一番の課題は使用済み燃料で、リスクが少ない地上に早く降ろさなければならない。将来的には溶融した燃料の取り出しもあり、外部に放射性物質が出ないよう設備対応を施し作業することになる。水を含めた廃棄物の安全管理も課題だ」

 ―福島第一原発の安全基準はどう進めるのか。

 「廃炉措置を進めるかについて具体的な計画を評価し、不完全な部分がないかチェックする。随時の安全監視を続ける。明文化して『こうしなさい』とすれば作業が硬直化し、進まない懸念がある」

 ―安全対策でハード整備の必要性は。

 「建物が損壊しており、放射性物質が出ないよう密封性を確保すべきだ。ただ、不必要な安全について求めれば廃炉作業が遅れ、リスクが残り続ける。福島第一原発に関しては総合的にリスクを下げる規制の在り方を考えなければならない」

 ―原子力災害対策指針で、福島第一原発の原子力災害対策重点区域の範囲が示されていない。

 「リスクを考慮し、対応を打ち出すのには時間がかかる。重点区域の設定は、原子炉が稼働していることが前提。その考えを取り入れるべきかを議論しなければならない。他の原発と横並びが良いとは思えない。県と相談し、住民の防災としてあるべき姿を探る」

 ―福島第二原発の再稼働に対する見解は。

 「再稼働は技術的には可能だと思うが、県や市町村、住民の意向から現実的には困難だろう。施設は津波で痛んでいる部分の復旧工事が十分に進んでいない」

 ―廃炉に向けた作業は三十~四十年といわれているが、国が集中投資すれば短縮できるとの声もある。

 「早いことが望ましいが、投資だけで簡単に技術開発が進むものではない。また、廃炉に関わる作業員の確保も課題だ」”

2012年10月8日月曜日

原子力規制委 田中委員長 インタビュー

原子力規制委 田中委員長 インタビュー 再稼働手続き白紙 ストレステスト採用せず 「新基準」10ヶ月以内に 従来プロセスと決別 福島民報2012年9月25日2面

“ 原子力規制委員会の田中俊一委員長(福島市出身)が二十四日、共同通信のインタビューに応じ、再稼働に向けた原発の安全性の判断に関し「規制委の判断基準として安全評価(ストレステスト)を採用しない」と述べ、安全評価の結果は審査せず、今後十ヶ月以内に定める新たな安全基準に基づいて判断する方針を示した。”

福島第一、安定と言えない 一問一答

“ 原子力規制委員会の田中俊一委員長インタビューの一問一答は次の通り。

―今後定める原発の安全基準の課題は。

 「大飯原発の再稼働で使われた暫定基準がまったくだめではないが、東京電力福島第一原発事故や各事故調査委員会の報告を踏まえ、きちんと見直す。一番気にしているのは断層の問題。大飯は来月にも私たちの目で見て判断したい。防災計画がきちんとできていないと地元は原発の稼働に納得できないだろう」

―地震時に拠点となる免震棟の整備は時間がかかる。

 「再稼働に絶対必要な条件と、これは何年以内に設置しなさいという仕分けは出てくると思う」

―電力各社がまとめた安全評価(ストレステスト)の扱いは。

 「われわれの判断基準として採用はしないつもり。提出済みであっても規制委として良しあしを判断するつもりはない。それらを包含した形で安全基準をつくる」

―二次評価の扱いは。

 「安全性を向上させるためなら、電力会社が自主的にすればいい。大いにやってほしい」

―旧原子力安全委員会が示した、原発から三十キロ圏内を防災重点地域とする考え方は。

 「積極的に変える理由はない。ただ福島の事故を踏まえ、情報がちゃんと伝わっていないとか、病院の人が動けなくなるとか、子どもが不必要な被ばくをしたとか課題がいっぱいある。指針や計画は大急ぎでつくる」

―福島の緊急事態線源の解除は。

 「第一原発は安定しているとは言い切れない。使用済み燃料を取り出すまでは難しい。ただ首相が判断することだ」

―従来の規制機関の審査は長期化することが多かった。

 「規制委の議論は、必要あれば『徹夜ででもやって』と言うつもり。急ぐものは急ぐのだから。議論を尽くせるようにしたい。大飯の断層調査の結論もできるだけ早く出す」”

「最も厳しい規制目指す」田中氏 海外記者向けに講演

“ 田中俊一委員長は二十四日、東京都内で海外メディア向けに講演し「日本の原子力規制を世界で最も厳しいレベルにすることを目指す」と決意を述べた。記者からは「以前の経済産業省原子力安全・保安院と同じスタッフで、どう安全確保ができるのか」などと、実現性への厳しい指摘が相次いだ。
 田中氏は「個人の思いを反映できなかった制度の問題。(職員の)意気込み、気構えを大切にすれば十分にその疑問に答えられる」との認識を示した。
 また「大惨事を起こした東京電力は原発から撤退すべきか」との問いには「規制委として判断することはできない。今後、いろいろな議論の中でそういうケースはあるかもしれないが、今、要求することは考えていない」と述べた。
 政府による二〇三〇年代の原発ゼロ方針と使用済み核燃料再処理の継続が矛盾しているとの指摘には「個人的に考えはあるが、コメントは差し控えたい」とした。”


2012年9月26日水曜日

「廃炉、防災が最優先」田中委員長一問一答

「廃炉、防災が最優先」田中委員長一問一答 福島民報2012年9月20日2面

“ 原子力規制委員会の田中俊一委員長が十九日、就任記者会見を開いた。主な内容は次の通り。

 ―喫緊の課題は。

 「優先課題は三つ。東京電力福島第一原発の片付け(廃炉)をいかに安全に進めるか。事故を起こした原子力施設の防災体制をどうするか。低線量とはいえ住民が住んでいるのでその対応。これらが最優先だ」

 ―原発の再稼働基準は。

 「(これまで条件としていた)ステレステストや暫定基準にとらわれず、新基準で見直す。年内の新基準作成は非常に難しい」

 ―関西電力大飯原発3、4号機の再稼働では安全評価(ストレステスト)が条件になった。

 「ストレステストは法的に決められたプロセスではなく政治的な方策だ」

 ―原則運転四十年について。

 「四十年は技術の寿命としてそこそこの長さだ。四十年前の炉は現在の基準から見て、必ずしも十分ではない」

 ―二十年の運転延長は。

 「相当困難ではないか。(最新の科学的知識の適用を既存原発義務付ける)バックフィットが非常に重要になる」

 ―既に四十年を超えている日本原子力発電敦賀1号機など三基の扱いは。

 「規制の在り方はこれから議論する。予断を持って申し上げられない」

 ―原発の新増設について経済産業省との整合性は。

 「今後とも経産省との整合性に配慮するつもりはない」”

原子力規制委員会初代委員長に就任 田中俊一氏 福島民報2012年9月20日2面

“ 「最も重要なのは信頼回復。原点は福島にある」。東京電力福島第一原発事故で原子力行政への信頼は失墜した。未曽有の事故収束はまだこれからだ。規制委員会の発足式では「道筋は並々ならぬ厳しさがある」と訓示、気を引き締めた。
 事故直後の昨年三月末、「原子力の平和利用を進めてきた者として国民に深く陳謝する」と声明を出した専門家十六人の一人。本県などの除染アドバイザーを務め、現地に通った。「反省を行動に移した数少ない人物」と政府は評価したが、批判を恐れて国会同意は先送りしたまま、新組織のかじ取りを委ねた。
 原子力開発が夢の未来につながると思われていた時代、東北大で原子力を学んだ。日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)で長く勤務。日本原子力学会会長、原子力委員会委員長代理などの要職を歴任した。
 一九九九年に茨城県東海村で起きた核燃料加工工場の臨界事故では、現場で対応に当たった。周囲は「行動力があって誠実な人柄」と評する。
 淡々と落ち着いた語り口。普段は硬い表情だが、地元福島の話題になると自然と笑みがこぼれる。ただ、“原子力ムラの住人”との指摘には「レッテル貼りは好きじゃない」と怒りを隠さない。
 就任直前に福島原発の事故現場を初めて見た。「言葉にならないものを感じた。(収束作業は)事業者任せでは駄目だ」。原発推進、脱原発双方の論争が続くが、真に有効な安全規制ができるのか、実行力が問われる。”





2012年9月15日土曜日

廃炉に安全基準設ける 田中原子力規制委員長候補が発言

廃炉に安全基準設ける 田中原子力規制委員長候補が発言 | 東日本大震災 | 福島民報 2012/09/14 11:19

“ 原子力の安全規制を一元的に担う原子力規制委員会の初代委員長候補の田中俊一氏(67)=福島市出身=は13日、福島民報社のインタビューに応じ、東京電力福島第一原発の廃炉作業について安全基準を設ける考えを明らかにした。破損燃料の取り出しや高濃度汚染水の管理など現在の保安規定で対応できない部分を補い、原子炉の安全性を確保する。一方、「福島の被災者の声を規制委員会の活動の原点にする」と誓った。”


原子力規制委員長候補 田中俊一氏(福島市出身)に聞く 福島民報2012年9月14日3面

稼働から40年経過した原発の運転 安全的には厳しい

規制庁の専門性向上 幅広い分野から人材活用


―除染アドバイザーを務めた出身地の本県への思いも含め、就任の抱負は。

 「県内での除染を通じて聞いた被災者の声を規制委の活動の原点としたい。本県の今の状況が忘れられないよう、中央に発信するメッセンジャーとしての役割も担いたい」

―国会の所信聴取で、運転から四十年超の原発は原則廃炉とする政府方針を厳格に適用する考えを示した。

 「原発が四十年超えて稼働できるかは非常に厳しい。超えるとしてもハードルが高いと思う。具体的にどのようなハードルになるのかはこれからの議論。政策的な視点からの議論もあるようだが、それは規制委として関与することではない」

―原子炉に精通しているのはメーカー関係者との指摘がある。一方、福島第一原発の事故は電機系統の事故だったとの見方もある。幅広い理系の人材を安全規制に巻き込むべきではないか。

 「私も原子炉の専門家でないと言われたが、原子炉は総合技術。科学、放射能、医療までいろいろな分野の人材がいて成り立つ。規制機関としてどれだけ人材を集めることができるか分からないが、電力事業者が緊張するくらい高いレベルの規制庁をつくる」

―米国の原子力規制委員会(NRC)に比べ、日本の規制当局は権限が弱く体制が脆弱との指摘がある。米国型組織をどう評価し、どのような組織を目指すのか。

 「NRCも最初から独立した組織ではなかった。日本もまた今回独立するのをきっかけに、米国以上にきちっとした規制組織とする覚悟だ」

―福島第一原発事故については、政府、国会、民間の各調査委員会が検証したが、どう受け止めているか。

 「原子炉内部のことが分からないので不明な部分は残った。規制委としても事故原因を探るとともに将来への教訓を引き出したい」

―県や伊達市の除染アドバイザーを務めるなど、事故直後から古里である本県のために活動してきた。

 「福島が元の姿に戻るまでには長い時間がかかるだろう。今まで除染など福島でできる限りの支援をしてきた。委員長に就くと直接とはいかなくなるが、引き続き応援していく」


たなか・しゅんいち 福島市出身。会津高卒、東北大工学部原子核工学科卒。昭和42年、日本原子力研究所に入所し、同研究所東海研究所長、同研究所副理事長などを歴任。平成17年に日本原子力研究開発機構特別顧問となり、原子力委員会委員長代理も務めた。

2012年7月23日月曜日

「福島の環境取り戻す」田中俊一氏

「福島の環境取り戻す」 原子力規制委員長候補の田中俊一氏 事故反省し除染尽力 福島民報2012年7月21日2面


伊達市霊山町で果樹除染の実験に取り組む田中氏(右)=平成23年8月

” 原子力規制委員会の初代委員長として「白羽の矢」が立った田中俊一氏は、東京電力福島第一原発事故後、放射性物質による汚染で苦しむ本県で除染活動に尽力してきた。
 「原子力に関わった人間として、県民に大変な迷惑を掛けた。これからの人生を、福島の環境を取り戻すことに尽くしたい」。昨年四月、ともに除染活動に取り組むコープふくしまの野中俊吉専務理事に送ったメールだ。
 田中氏は原発事故後、率先し本県に関わり、県が設立した除染の専門家ボランティアにも登録。作業員に交じり土を削るなど除染に取り組む姿勢に共感を覚える人も多い。
 事故から二カ月後には、計画的避難区域に指定された飯舘村長泥地区で活動を開始。伊達市では住民と共に小学校の校舎やプールの除染に取り組んだ。果樹の除染実験に汗を流し、近くの農家から「おいしそうなモモですね」とうれしそうに購入していた。今も一カ月のうち一週間は県内で過ごす。
 田中氏が除染アドバイザーを務める伊達市の仁志田昇司市長は「専門知識を生かし活躍してほしい。高い次元で判断するのにふさわしい人」と喜んだ。
 特定避難勧奨地点を抱える同市霊山町下小国地区の佐藤好孝さん(七四)は「市が県内に先駆けて除染に取り組む原動力になっていた。現地の人の気持ちを分かっている人なので、期待したい」と話す。福島市の主婦奥田敦子さん(五八)は「仮設住宅で避難生活を送っている人たちは大変な思いをしているので、少しでも助けになるよう復興に尽くしてほしい」と望んでいる。

※原子力規制委員会 国家行政組織法3条に基づいて設置され、委員長と委員4人は原子力や地震の専門家らで構成する。東京電力福島第一原発事故を受け、経済産業省が握ってきた原発の推進と安全規制の役割の分離を実施。原発に関する技術的、科学的判断に基づく決定は、首相でも覆せない。実務は事務局の「原子力規制庁」が担う。

解説 原子力ムラとの距離重視

 今後の原子力安全規制を担う原子力規制委員会の人選は、業界とのもたれ合いから東京電力福島第一原発事故を防げなかった反省を踏まえ、「原子力ムラ」から距離を置くことに重点を置いた。
 日本原子力学会会長を務めるなど「重鎮」でありながら、事故後は本県入りして除染に取り組むなどしている委員長候補の田中俊一氏は、こうした距離感に加え、「事故の反省」も条件とした政府の人選方針に合致したとみられる。
 委員長を含め五人の委員は、それぞれ「原子炉」「地震」「放射線防護」などの専門分野のバランスを取った布陣を目指す。しかし原子炉メーカーや電力会社の出身者の方が原発の構造などに詳しいのも事実で、こうした人材を過度に遠ざけることで、万一の事故の際、対応が不十分になる恐れも指摘される。
 田中氏ら五人は早速、原則四十年と定めた原発の運転期間の扱いや、関西電力大飯原発3、4号機(福井県)に続く再稼働問題への対応などに直面する。
 ただ五人で山積するすべての課題をカバーするのは難しい。より実効性を伴った安全規制を実現するには、事務局の「原子力規制庁」をはじめとした各委員をサポートする体制の整備も急務だ。

原子力規制委員会 人事案

委員長 田中俊一   前原子力委員会委員長代理 [放射線物理]

委  員 中村佳代子 日本アイソトープ協会主査 [核医学]

委  員 更田豊志   日本原子力研究開発機構副部門長 [原子炉安全工学]

委  員 大島賢三   元国会事故調委員 元国連大使

委  員 島崎邦彦   地震予知連絡会会長 [地震学]

※[ ]内は専門分野。敬称略”


2012年7月2日月曜日

カタログハウス「子どもの甲状腺検査アンケート」

※カタログハウスが2012年6月末に福島県在住の読者宛に送付した往復はがきによるアンケート。

往信 表

宛先と宛名のみ

往信 裏

福島県立医科大学が行なっている「子どもの甲状腺検査」について。

拝啓 福島県在住の読者で、甲状腺検査対象のお子さんやお孫さん(昨年の3月11日時点で18歳以下)がいる方へ。

いつも通販生活をご愛読くださりありがとうございます。
「福島県立医科大学が行なっている子どもの甲状腺検査」について、ご意見をお聞かせください。
本誌秋冬号(10月発行)の「福島のお母さんたちの今」(仮)という特集に使わせていただきたいのです。

●個人名は許可なく発表することは一切いたしません。アンケートにもお名前等を記入されたくない方は、無記名でけっこうですので、ぜひ返信用はがきのアンケートにご協力のほどお願いいたします。恐れ入りますが7月10日までにご返信ください。(該当するお子さんがいらっしゃらない読者は回答なさらないでけっこうです)

敬具

(株)カタログハウス 読み物編集室
電話:03-5365-2299 FAX:03-5365-2298
E-mail:kikaku@cataloghouse.jp

返信 表

東京都代々木支店
私書箱65号
(東京都渋谷区代々木2-12-2)
カタログハウス
「子どもの甲状腺検査アンケート」係

(バーコード)

↓お名前等を記入されたくない方は無記名でけっこうですが、お住まい、性別、年齢など、出来る限りのご記入をお願いします。
 ※本件に関する各種個人情報は取扱いを厳重にし、他の企画等では一切使用しません。

(回答欄)

お客様番号 お名前 お住まい(市町村まで) ご記入者の年齢と性別 お子さんの年齢と性別

ご回答を拝見した編集部が詳しくお聞きしたい場合、お答えいただける方は電話番号をご記入ください。 電話番号

返信 裏

(アンケート)

問1 お子さんは甲状腺検査を受けましたか。
a.受けた( 年 月 日)※検査結果は(A1 A2 B C)
b.まだ受けていない( 月 日 時点)

問2 福島県立医科大学が行なっている甲状腺検査について、どうお感じですか。
a.とくに不安はない。
b.少し不安がある。 c.とても不安がある。

問3 問2でbまたはcと答えた方へ。その理由として下記に該当するものがあればいくつでもマルを。
イ.検査を受けていない。せめて、何月になるのか知りたい。
ロ.現在、検査結果は「しこりやのう胞の有無」「再検査の必要の有無」などが書面で通知されるだけだが、超音波検査の画像や医師の所見も知りたい。
ハ.超音波検査だけでなく、血液検査もしてほしい。
ニ.1回目の甲状腺検査のあとは2年に1回の検査になるが、もう少し間隔を短くしてほしい。
ホ.県の検査とは別に、県内外の病院で自由に甲状腺検査を受けられるようにしてほしい。
ヘ.検査に関して国がもっとバックアップすべきだ。

●そのほかのご意見



※以上

2012年6月11日月曜日

絵本通俗三国志より「華陀刮骨治関羽」


絵本通俗三国志. 初,2-8編 / 池田東籬亭 校正 ; 葛飾戴斗 画図

五編巻之八 華陀刮骨治関羽

関羽。すでに。魏の七軍を打平げて。一手の勢を。郟下にさしむけ。みづから。大軍を引て。樊城の四方を囲ミ。北の門に馬を立て。汝等城中の鼠。なんぞ。早く降らざる。われ忽ちに打破て。一人も餘さじと。よバゝり。大膚抜になりて。兵を下知しけれバ。曹仁。矢倉の上より。望ミ見て。きうに。五百余張の弩を。同時にはなち出しけるに。関羽。右の臂を射れ。馬より。倒(さかさ)まに落しかば。城中より。これを見て。曹仁。一度に討て出けれバ。関平。兵を進て。大に戦ひ。父を救て。本陣に回(かへ)り。鏃を掘て抜けるに。元来。毒藥を付たる。矢なりしかバ。血流れて止ず。臂ハ。青く腫て。痛はなハだ忍びがたし。関平。諸将をあつめて申けるハ。父の矢瘡。痛手なれバ。しバらく戦ひを休(やめ)。荊州に回りて。保養すべし。王甫が曰く。某が意(こゝろ)も。相同じとて。ともに帳中に入て。その体を見に。関羽。席上に坐して。常に異ならず。汝等。いかなる。ゆへかあると。問けれバ。王甫が曰く。某等ミな。将軍の矢瘡重を見に。若(もし)敵に臨んで。怒を発し。又ハ合戦に出て。臂を使ひ玉ハんことを怕(おそ)れ。諸人相議して。しバらく。荊州に回らんと存じ候。関羽。怒つて申けるハ。われ。樊城を取こと。目前にあり。樊城をとりて。後の患(うれひ)を除き。長く駈て。大にすゝミ。都の内に攻入て。曹操が首を刎。再び。漢の天下を。興さんことハ。これ我。もとよりの願也。豈小の矢瘡によりて。これ程の。大事を廃せんや。汝等。無用の舌を揺(うごか)して。諸軍の心を。おこたらしむることなかれと。叱けれバ。諸将おそれて退出す。しかれ共。瘡の痛。はなハだしく。なりけるゆへ。四方に人を遣して。名ある毉者を尋けれバ。ある日。一人の毉士。小舟にのりて。呉の國より來る。関平。よび入れて。對面すれバ。その人。あやしき衣を被て。臂に青き嚢(ふくろ)をかけ。某ハ。沛國譙の人にて。華陀。字ハ元化と申もの也。関将軍ハ。天下の義士。いま毒の矢に。中(あたり)玉ふときいて。療治を加ん為に。來れりといひけれバ。関平問て曰く。御辺ハ。そのかミ。呉の大将。周泰が瘡を治したる人か。華陀が曰く。しかり。関平大に喜び。諸将とともに。中軍に入りて見れバ。関羽ハ。臂の痛。はなハだし。かりけれども。諸軍の。乱れんことを怕れ。痛をしのんで。馬良と。碁を打て。居りけり。関平すなハち。華陀を引て。對面させけれバ。関羽座をたまふて。傍に坐せしむ。華陀。瘡を見んと請けれバ。関羽。衣を袒(かたぬ)ぎ。臂を伸て。見せしむるに。華陀申けるハ。これハ弩の矢瘡にして。烏頭といふ。毒藥。すでに。骨に透り入れり。もし。はやく治せずんバ。この臂ながく廃るべし。関羽が曰く。いかなる。物をもつて。治すべきぞ。華陀が曰く。たゞ怕くハ。将軍の。おどろき怕れ玉ハんことを。関羽笑つて曰く。われ死をだに顧ミず。なんの怕るゝことかあらん。華陀が曰く。靜なる所に。一つの柱を立。鉄の環を打て。将軍の臂を。環の中に入れ。縄を以てよく/\縛り。被(ふすま)をもつて顔を?(おほふ 蒙)。病人。これを見れバ。怕れ動くことを。おもふゆへなり。われ。刀をもつて。皮肉をさき。ひらき。骨に付たる。毒を刮りて。藥をもつて。これを塗。その口をぬふときハ。おのづから。無事ならん。たゞ怕らくバ。将軍。おどろき怕れたまふべし。関羽笑て曰く。これにすぎたる。易きことやある。何(なんぞ)柱を用ゆべきとて。酒を出して。もてなし。ミづから。数杯をのんで。本のごとく。又馬良と基を囲ミ。右の臂を伸て。華陀にさづけしかバ。華陀。手に刀をもつて。一人の士卒に。盆をさゝげて血を受させ。たゞ今。切破り候ぞ。おどろき玉ふなと云けれバ。関羽が曰く。早く割玉へ。われなんぞ。世間の小児と。おなじからん。御辺心のまゝに療治せよ。華陀すなハち刀をもつて。皮肉を尽く。切破り。骨を出して。これを見るに。骨すでに毒にそみて。その色青しすなハち刀をもつて。これを割に。満座ミな面を掩て。色をうしなハずと。いふものなし。関羽。酒を飲。肉を食て。笑ひ談(かた)ること。故のごとく。碁を囲で。さらに動ことなかりしかバ。血ながれて盆に滿。華陀。その毒を。こと/゛\く刮り。能々藥をぬり。線(いと)をもつて。口を縫了りけれバ。関羽大に笑ひ。諸人に向て申けるハ。この臂。すでに伸屈(のべかゞむ)ること故のごとし。すこしも痛むことさらになし。華陀が曰く。某。医を業とすること。久しけれども。いまだ。将軍のごとくなる。人を見ず。乃ち。まことの天神なり。某すでに。療治を加る上ハ。百日を。すぎずして。旧のごとくなるべし。よく/\。慎ミ護て。怒の気を起し玉ふな。関羽かぎりなく喜 黄金百両をもつて。謝しけれバ。華陀が曰く。某。もとより。将軍ハ。天下の義士なることをしりて。こゝに来れり。なんぞ。この賜を受んやとて。卒に受ず。別に藥一貼を残し。後に。瘡の口をおふひ玉へといふて。相別れて去にけり。

"華陀関羽が臂を割て毒瘡を療ず"



通俗三国志之内 華佗骨刮関羽箭療治図 歌川国芳 1853年4月


2012年6月10日日曜日

絵本通俗三国志より「孫峻計殺諸葛恪」


絵本通俗三国志. 初,2-8編 / 池田東籬亭 校正 ; 葛飾戴斗 画図

七編八 孫峻計殺諸葛恪

去程に諸葛恪ハ。淮南より回(かへ)りて後。心神恍惚として。快からざりしかバ。中堂に出て坐したる所に。何(いづく)とも無。麻の衣を被(き)て。孝を掛たるもの。一人出来れり。諸葛恪。あやしんで。何ものぞ。いま/\しき体にて。此にきたれると叱けれバ。その人大におどろき。茫然としてあきれたる体なり。諸葛恪いかさま是ハ故あらんとて。士卒を召て拷問せしむるに。その人つげて申けるハ。某が父近比亡びたり。是故に僧を請じて。作善追薦の営をなさん為に。此所を寺なりとおもふて入けるに。案の外に太傅の府中なりと云けれバ。諸葛恪もつての外に怒て。門を守る軍士をめして。怪しき人や入たると問に。皆答て。某等一刻も離れず。数十人戈を持。鎗を?(とり)て。門を守といへども。曽(かつ)て左様の人を見ずといひけれバ。諸葛恪。弥々あやしミ。番衆を一人も残さず斬殺し。その夜心易からずして。臥たりしに。俄に正堂の内。おびたゝしく鳴響て。百千の霹靂(いかづち)の。おつるがごとくなりけれバ。自ら行て。これを見るに。正堂の梁(うつバり)中より折て二つとなり。陰風習々として何ともなく。哀ミ哭く音(かなしみなげくこえ)。耳に満て。今朝殺したる。麻の衣を被たる者。数十人の軍士を伴ひ来り。諸葛恪が頭を掴んで。命を求む。諸葛恪。?(たましひ 云+鬼)を喪つて。地の上に倒れけるが。良久(やゝひさしふ)して甦り。早天に起て。湯洗ひ口漱ぎけるに。其水はなハだ血腥かりければ。侍婢を叱つて。水をかへさせけるに。幾度かゆれども。その臭きこと旧のごとく。諸葛恪はなハだ怒り。立所に侍婢を斬て。衣服をき更(かへ)んとすれバ。是も血腥(ちなまぐさふ)して。数十度被更れども臭こと休ず心の内凋帳として居たる所に。忽ち天子勅使あり。太傅を招いて。酒宴をなし玉ハん。早々に参らるべしと云けれバ。諸葛恪。勅を?(うけたまハ 承)り。急ぎ車にのつて多の兵をしたがへ。中門まで出けれバ日比羪(やしな)ひ置たる黄なる犬あり。走り来て諸葛恪が裾を呀(くハ)へ。その?(こへ 士+巴)嚶々として哭く状をなしけれバ諸葛恪が曰く。此犬わが参内を。とゞむるならんとて。遂に引回(ひきかへ)して坐しけるが。暫くありて出けれバ。犬又走り来て引止む。是のごとくなること三度におよびけれバ扨ハこの犬われに戯るゝ也とて。兵に命じて逐打せ。車を推て出けれバ。俄に白き虹。地より起て。練絹を引がごとく。天に上り失にけり。諸葛恪左右の人にむかつて。此ハ不吉の兆にあらずやと問けれバ。皆答てこれ慶の吉兆なりと申す。已に車をはやめて禁門に入けれバ。武衛将軍孫峻。出迎へ地に拝して申けるハ。太傅の尊体。近此不安なるときゝ玉ひて。天子酒宴を設けて待玉ふと。云ければ互に礼了(おハり)て内に入けるに。御林の大将張約。車の前に来て。今日宮中の酒宴ハ。某さらに心得ず。はやく此より回玉へと。私語(さゝやき)けれバ。諸葛恪大にあやしんで。急に車を回しけるに。太常卿滕胤つと来り。車の前に拝伏して曰く。これハ何とて御回(おんかへり)はなハだしふして。天子に見(まミ)ゆることを得ず。滕胤が曰く太傅さきに。魏を攻玉ひて後卒に天子に見へ玉ハず。今日酒宴を設けて。國の大事を議し玉ふ。假令(たとひ)いかなる事ありとも。是まで来て回り玉ふことやある。勉て天子に見玉へ。諸葛恪已ことを得ず。相共に宮中に入けれバ。呉主孫亮出迎て曰く。朕久しく。太傅に逢ず。今日酒宴を設けて。一大事を議せんとほつす。諸葛恪が曰く。いかなる大事にて候ぞ。孫亮が曰く。しバらく坐せよ國家の政を議せんとて。孫峻に命じて。盃をとらせけれバ。諸葛恪心の内安からず臣が病ハまだ痊(いへ)ず。是故に酒を呑ずと云けれバ。孫峻が曰く太傅は常に薬酒を製して。飲玉ふと?(うけ 承)玉ハる。急ぎ人を馳てとり来らしめん。諸葛恪が曰く我病薬酒ハ苦しからず孫峻すなハち人を遣して。諸葛恪が。みづから造置たる。薬酒をとりよせけれバ。諸葛恪も。心を安んじて。是をのミ。已に數返におよびけるとき。孫亮事に託(よせ)て外に出けれバ孫峻殿(でん)の上より走り下り。衣裳を脱で。小具足ばかりになり。刀を提げて。おどり出。天子詔あり。逆賊を誅すとよバゝりけれバ。諸葛恪大におどろき。盃を弃(すて)て劔を抜とき。首ハ已に地に落たり。張約これを見て。刀を舞して討て蒐(かゝ)り。孫峻と戦て。張約。右の臂を斬落され。孫峻は左の指を斬れにけり。ときに武士ども走り来り。張約を寸々(すだ/\)に斬て肉泥としけれバ。朱恩かなハじとや思ひけん。外に走りけるを。追付て斬殺す。孫峻すなハち大音あげ。諸葛恪罪ありて。已に誅し了り。諸人罪なしとよバゝりけれバ。上下ミな安堵をなす。其後殿上の血をきよめ。再び呉主孫亮を請じて。慶の酒宴をなし。芦の蓆をもつて諸葛恪が屍を包ミ。篾(たけむしろ)をもつて上を束ね。車にのせて城南の門外石子崗の塚坑にぞ弃させける。諸葛恪が妻ハ。房(ねや)の内に居りけるに俄に心の愕くやうにして。恍惚としけるが。暫ありて。侍婢一人外より来り。遍身血に汚れたりけれバ。あやしんで何事ぞと問に。その女。目を怒し牙を咬み高踊挙(たかくおどりあがり)て。その頭 梁を撞。われハ乃ち諸葛恪なり今日奸賊孫峻に出抜れて。殺されたりとよバゝりしかバ。一家の老少。おどろき怕(おそ)れて、哭き号(さけぶ)?(こへ 士+巴)四方にきこゆ。不時に武士どもはせ来り。其一家をしばつて尽(こと/゛\)く市に斬る。ときに呉の大興二年 *1 冬十月なり。初め江南の小児の謡に。諸葛恪芦蓆單衣篾鈎落 于河相救成子閣 *2 といへり。昔し父の諸葛瑾常々諸葛恪がはなハだ聰明にして。才智尽く外へ著(あらハ)るゝを嘆き。此子。家を保の主にあらずといひしが。果して此のごとく。又魏の光禄大夫張緝が。司馬師に語て申けるハ。諸葛恪ハ。久しからずして必ず死せん。司馬師その故を問に 威震其主 功蓋一國 なんぞよく。久しからんと云けるが。尽く今日に應ぜり。呉主孫亮。これより。孫峻を丞相大将軍富春侯に封じて。内外の事を総督(すべたゞさせ)けれバ。権柄又一人に属しける。

*1 建興ニ年の誤りか。
*2 宋書に以下の記載があるようだ。

吳孫亮初,童謡曰:「籲汝恪,何若若,蘆葦單衣篾鈎絡,于何相求成子閣。」成子閣者,反語石子堈也。鈎落,鈎帶也。及諸葛恪死,果以葦席裹身,篾束其要,投之石子堈。後聽恪故吏收斂,求之此堈雲。孫亮初,公安有白鼉鳴。童謡曰:「白鼉鳴,龜背平,南郡城中可長生,守死不去義無成。」南郡城可長生者,有急,易以逃也。明年,諸葛恪敗,弟融鎮公安,亦見襲。融刮金印龜,服之而死。鼉有鱗介,甲兵之象。又曰白祥也。

"諸葛恪穢水を嗔(いかつ)て侍婢を斬る"


"諸葛恪が妻閨中に奇怪を見る"


2012年5月4日金曜日

田中俊一氏に聞く 「既存の技術 改良すべき」

田中俊一氏に聞く 「既存の技術 改良すべき」 - 東日本大震災|福島民報 2012年5月4日 3面

【除染作業に伴う技術開発の在り方は】

■既存の技術 改良すべき
東京電力福島第一原発事故で拡散した放射性物質の除染作業が本格化する中、NPO法人放射線安全フォーラム副理事長で県除染アドバイザーなどを務める田中俊一氏に除染作業に伴う技術開発の在り方などを聞いた。

-除染の技術開発についての考えは。

「土壌やコンクリート、樹木などに付着した放射性セシウムの除染には2つの課題がある。第1に放射性物質を減らす目標を達成できるかどうか。2番目は広範囲に土壌などを除染する場合に生じる廃棄物をどう抑制するか。効率的に、費用を抑え、廃棄物を減らすことが重要だ。新たな技術より実践の積み重ねが必要となる。特に目新しい技術が求められるものではない」

-現場で作業するに当たり、求められる技術は。

「例えば、側溝などの細かい部分、芝や土手などの表面を薄く削れるような道具があれば作業が楽になる。既に存在する技術を、現場の環境に合った形に改良すべきだ。一瞬で放射性物質を除去する魔法のような技術はあり得ない。コスト意識も大切だ。行政はゼネコンなど大手に頼りがちだが、地元の住民が家や田畑などで使える小型の機器が出回れば、除染が進むのではないか」

-既に開発された技術で効果的なものはあるのか。

「舗装面ではショットブラストは実績がある。放射線量を低減でき、削り取ったくずなどを吸引しながら作業ができる。一方、高圧洗浄には誤解がある。道路や雨どいの放射性セシウムが付着した土や葉を水でかき集めるために使うものだ。除染の効果は得にくい」

-国は除染のモデル事業に取り組んでいる。

「モデル事業は、さまざまな技術を使った結果を示すだけにとどまっている。住民が求めているのは『早く地域をきれいにしてほしい』ということ。除染対象に応じて推奨される技術と効果を具体的に示さなければ、地元の期待に応えられない。多様な技術から最も優れた部分を集約し、共有できるようにすべきだ」

-本県には広大な農地や山林がある。

「原発事故発生後に耕された田畑は除染が難しい。農作物への影響を防ぐため、放射性セシウムの移行を防ぐ取り組みと合わせて考えなければならない。山林は少しずつ作業を進めるしかない。一度に樹木を伐採すれば土砂崩れの懸念がある。地面に落ちた葉は除去、人家に近い木は一部を切るなどの作業が必要だ」

-除染の廃棄物対策をどのように進めるべきか。

「放射性セシウムは粘土やゼオライトなどに付くと安定する。しっかりと移動しないように処分すればいい。政府は中間貯蔵施設で放射性セシウムを除去し、最終的に県外に搬出するとしているが、莫大(ばくだい)な費用と時間を要する。個人的には各市町村で十分な安全対策を施した処分場を設け、収容するのが望ましいと考えている。住民の生活環境を守るための除染を進めるには、地元にも相応の対応が求められる」

たなか・しゅんいち
福島市出身。会津高、東北大工学部原子核工学科卒。日本原子力研究所に勤務し、内閣府原子力委員長代理などを歴任。昨年7月から県と伊達市の除染アドバイザー。67歳。


2012年4月12日木曜日

水野年方先生 : [草稿] / 鏑木清方 [著]

水野年方先生 : [草稿] / 鏑木清方 [著] (現在非公開)




” さしむかひには、「先生」と呼びかけるけれど、人に話す場合には、「宅の師匠が……」さう云つたものだつた。あるひは今でもさう呼ぶ人があるかも知れないが、近頃では藝人の他あまり「師匠」といふ敬稱は用ひないやうだ。

水野年方先生は月岡芳年の弟子で、系統的には純然たる浮世絵師なのだから、先生と云ふよりは、師匠と云つた方が、ピツタリしさうなものだけれど、その態度、風采なり、気持なり、何としても師匠といつたふうではない、そのくせ神田育ちの素地(きぢ)は、夏の湯上りに派手な浴衣で、団扇を片手に、竹縁にあぐらでもかいてゐられると、常磐津を嗜み、河東も少しはいける先生の半面が、それは本名粂次郎の姿をちらと覗かせるふしがないのでもなかつたが、私が弟子入りした時分の、神田東紺屋町の住居を去つて、谷中清水町の新築した家へ移られた、明治二十九年あたりからは、すつかり江戸ツ子を清算して、横から見ても、竪から見ても、歴史画家、水野年方先生になりきつて了はれた。

先生が浮世絵出身でありながら、どうして歴史画に轉向されたか、それは先生の本来の趣味に依るのはいふまでもないけれど、内面的の藝術上の欲求の他に、當時の世間との外面的なひつかかりが、相當有力なものであつたことを閑却することは出来ない、

江戸時代の官学派、宮廷派としての、狩野、土佐、その以外の流派を學んだものは、均しく町絵師と呼ばれて、武士に對する町人と同じく、そこに身分の相違がやがて画格の高下とされてゐた。浮世絵といふのは、厳密にいつて流派とは云へないが、社会の風俗、遊里、劇場に材を求めた上からも、そのグループに属するものは、町絵師の中にも亦た一段格の下つたものとされて、それでも天明から寛政、享和、名工輩出した頃は実力に依つて気を吐いてゐたのだけれど、徳川幕府の威力の失墜と共に、江戸に生れたこの市民藝術も、没落の過程へと急ぐ運命に堕ちたのは已むを得ぬなりゆきであつた。

その中に獨り幕末から明治へかけて、巨匠月岡芳年が踏んばつてゐた。芳年の絵の上の教養は、今日の眼で見ればさう高いものとは云へないのだが、それは時代のせいで、若し芳年だけの腕を持つものが、もうニ三十年後れて出たらたいしたものだつたらう。絵はうまい。北斎を誉めてゐたといふがさうありさうなことで、北斎とも芳崖とも通ふところがある。芳年は好んで武者絵をかいた。遡ればこれはその師國芳の志をついだものである。されば年方先生の歴史画の絵の脈は、井草國芳に續いてゐるわけなのであるが、國芳はその同門で勢力を争つた五渡亭國貞の女絵に對して、己れを知つての武者絵かきとなつたといふ傳説は正しからう。芳年は性来の好みと師授と、もう一つは卑しめられた画格の向上、それはちやうど團十郎と黙阿彌が、史劇、當時のいはゆる活歴に向つたのと同じ途を踏んだもので、その傾向の好尚を代表する菊地容斎の「前賢故実」に學んだ跡も明らかである。

先生はその師のさうした傾向を殊に重んじて、画格の向上を殆んど一生の仕事とされたと云つてもよい程だつた。平常の業務とした挿画以外、自發的に作画される場合、展覧会への出品などは、十の中の八九までは歴史に取材され、忠臣、孝子を画くことを好まれた。その交友もだんだん硬い側の方へ移つて、その生活は、こらがいはゆる浮世絵の傳統に育くまれた人かと不思議に感ずるやうになつて行つた。そんなわけなので私などでも、先生の膝下に在つた頃は浮世絵といふのはどんなものか、又どんな人がうまいのか、その派に關する知識は何も知るところがなかつた。春信を知り、春章を知るやうになつたのは、全く先生の許を離れてから、それも久しい後のことである。

先生が完全に浮世絵から免れようとされた心もちはよく解る。それほど傳統を脱出しようとした先生が、ある時、幸堂得知翁から多数の黄表紙を借りて、當時塾生だつた故人池田輝方に冩させたこともある。私が清長を知つたのはその時で、輝方と二人で豊麗な筆致に一もニもなく傾倒した。
画格の向上は先生自身の生活の向上にも関係が深い。先生の父君は、野中吉五郎といつて左官の棟梁だつた。先生は前にも云つたやうに神田生れだけれど、父君は江戸つ子ではない。先生も若い自分はやはり父の職を業として左官の粂さんであつたのだ。

先生は色白のやさ形で、その自分の美男の俳優、市川權十郎によく似てゐた。子供の時から絵が好きで、十四の年に、根津にゐた芳年の内弟子になつたが、それは根津に廓のあつた明治十何年といふ時分、芳年は大松葉の幻太夫のところへ入り浸つて、家には米櫃に米もなく、借金取の言譯が先生の役といふ始末だつたが、先生は辛抱強い人だからさしてそれを苦にもせず、内弟子の勤めはこんなものと思つてゐたのだけれど、父君はカンカンに怒つて「俺の息子は絵を習ひにやつたんで、借金取の言譯にヤアやらねへ」といふので退げて了つて、仕事場へ連れて行き、家の職を継がせようとした。

後にその父君の話だつたが「色の白い粂次郎が、真夏の暑い日ざかり、炎天の下で真つ黒になつて働いてゐるのを見て、さる仕事場の旦那が、粂さんもあんなに好きな絵を止めさせられて、温和しい気質(きだて)に文句も云はず、ああやつて黙つて仕事をしてゐるいたいたしい姿をお前さんは何と見る、と云はれてしみじみ可愛さうになつて、又芳年先生へ詫びを入れて二度の弟子入りをさせましたよ」と折節の息子自慢に聴かせられたことがある。

神田の家といふのは塗籠づくりの二階屋で、始めは店に竈が並べてあつた。店の上下を除いては、奥は六畳の二階と、下が四五畳の畳が敷いてあるだけで、その奥二階が、先生の唯一の部屋で、画室でもあれば、寝室でもあり、内輪の客には客室でもあつた。

私の上つた時、先生は二十四五、御新造は年上であつた。奥さんと呼ぶ敬稱は未だその頃は行はれてゐない(明治二十四五年)。御新造を約めて「御新(ごしん)さん」と呼ぶ。先生の美男に比べて御新さんは決して美しい方ではなかつたが、伉儷睦ましく、何もかも先生の為めに、世間の付合ひ何やかや、御新さんが無口な先生を助けて切つて廻してゐられた。

四五人の小さい弟子達は、只さへ狭い六畳の間に、先生の机を正面に丁字形に机を並べて、版下の冩し物から習ひ初めるのであつた。先生の机は丈が低く、俎板のやうな形のもので、新聞や雑誌の挿画がこの机の上で作られた。縮緬の小裂れを集めた、御新さんが心づくしの肱突きに左の肱を托し、右の小指と無名指をつなぐ黒い布の指輪のやうなものを嵌めてかいてゐられる。私はこれも絵をかく上に必要なことなのかと思つて、家でこしらへてもらつて嵌めて行つたら、御新さんに「先生は小指がはねる癖があるので、ああやつておいでなのですよ」と云つて笑はれたことがある。左の小指の爪際が、筆の穂先をならすので、いつも黒光りに光つてゐるのが目についた。

先生が好きだつたのか、御新さんの方が好きだつたのか知らないが、いつも猫を飼つてゐられた。私の行く前から三毛の女猫がゐたが、先生の手ずさみに、ボール紙へ裃姿で、扇子を膝にかしこまつてゐる形がかいてあつて、首のところだけがくりぬいてある。そのくりぬいたところへ三毛の首を嵌め込む。猫はうるさいから首を振りながら、あとじさりをする。猫のからだはボールの蔭になつてちつとも見えないから、恰(まる)で猫が裃を着て動いてゐるとしか見えない。このいたづらは先生の創意かと思つてゐたら、芳年翁のところにも行はれてゐたといふことを後になつて聞いた。あるひはその又一時代前に、國芳あたりから始まつたのかも知れない。國芳は有名な猫好きだつたといふから……。

その時分御新さんはかういふことも云はれた。「先生はあんなに柔しくつて、皆さんにどんな失敗(しくぢり)があつても、小言一つ仰しやらないけれども、そんな時は御自分で、どんなにか、じつと辛抱してゐらつしやるか知れないんですよ。ほんたうはあれで酷い癇癪持ちなのを御自分でがまんしてゐらつしやるんで、それは體にわるいと思ふんですが、先生の辛抱強さつたら……。」

それはあながち私達への訓戒の方便とばかりは云へなかつた。まつたく先生は辛抱強い人であつた。どんなことでも耐え忍ぶ。當然なんとか自己の意見を主張するのが利益である場合にも、己れから口を開かうとはされなかつた。長上の無理にも決してさからふやうなことをされず、他から見ては歯がゆい程に、自分といふものを殺して居られた。

明治二十一ニ年頃のことだつたらう。未だ二十歳そこそこの先生は、やまと新聞社へ出勤して挿画をかいて居られたのであるが、尾張町にあつたその社の奥に、トタン家根の木片(こつぱ)普請の二階が先生の部屋に宛てられてゐた。四畳半の琉球畳が敷いてあつて、窓は小さく、土蔵と土蔵の間に建ててあるから風は通らず、日もささぬ。あまり暗いので天井にあかりとりの窓をあけたところが、そのあさがほから、日中はまともに日があたるので、夏の真晝などは、裸になつてゐても居たたまれぬといふのに、肌襦袢をキチンと着て、白地の絣の襟も寛げず、暑いとも云はずに仕事をされるので、他の社員たちから変人扱ひされたといふこともある。

神田時代の若かりし日の先生は、いつも明るく元氣であつたが、それは御新さんのすぐれて快活な氣性が、よく先生の氣もちを引き立ててゐたので、先生自身は決して陽氣な性分ではなかつた。

その頃、若湊といふ角力取がゐた。小結ぐらゐまで取つたかと思ふが、先生はこの力士が好きで、「若湊はさうたいして人氣もなく、大関になつたり、横綱は張れさうもないけれども、ぱつと人に騒がれて、その人氣が持ち堪へられずに幕から落ちるやうな力士ぢやない。画かきなんかも、一時花形と持ち上げられて、はでな盛りを見ようより、一生ぢみに目立たなくても、變らずに暮らせるやうにありたい。私(あたし)はそれで若湊が好きさ。」

二十五六の若盛りに、先生はさういふぢみな處世感を弟子に訓ゆる人であつた。

先生とは、陰と陽との組み合はせのやうであつた先夫人は、谷中へ移るとすぐ病没された。

先夫人に死別されてから、先生の家庭生活は甚だ恵まれざるものであつた。いざとなれば自分の意志を徹(とほ)すことに、意外に勇敢なところもあつたのだけれども、それはせつぱ詰まつた、ほんたうのどうにも抜きさしのならない、已むを得ない時のことで、さて押し切つて徹したあとの心のなやみ、それは心身を蝕ばむ苦しみとなつて己れを責める。先生の早世されたのも、まつたくかうした、あまりにも自分を抑壓されたことが因をなしたものであつたと云へる。亡くなつた御新さんの云はれたやうに、癇癪をじつと抑へる辛抱強さ、それはやつぱり先生の體の為めにはならなかつた。脳を疾んで逝かれた先生の終焉は寔に淋しく、追想は私の心を暗くさせる。

先生の画生活の中で一番緊張して居られたと思ふのは、先夫人の没後、谷中の家の移りたてに、明治三十年十月、日本画會の第一回展覧会へ、堀川御所の佐藤忠信を画かれた時分で、それまでは甞つて公開の展觀へ出品されたこともなかつたのを、夫人との別れ、挿画画家からの轉身、住居の変化、あれも、これも、先生の一生に豁然と時代を分けた機會にあたつて、まだ少年だつた池田輝方君に侍(かしづ)かれて、新しい画生活へのかしまだち。その頃の先生は、その生涯を通じて、画道の精進に最も潔く見えた時であつた。

「忠信」の絵はやはり先生の代表的な作であらう。その絵は 御物となつてゐて再び接する機を有たなかつたが、先年東京朝日の「明治大正名作展」で久しぶりにこの作を見て、いろいろとその當時のことが偲ばれたのであつた。

谷中清水町は大河内子爵家の邸内で、動物園のうしろの暗闇坂を境に、狐狸の巣窟のやうな密林で、物凄い古池があり、その池は一部分が今でも残つてゐるさうであるが、先生が新築をされる時分は、大きな椎の古木が池に蔽ひかぶさつて、あたりは竹藪が多かつた。

先生の画室は二階の六畳で、東は肱かけ窓で、上野の森を仰ぎ、南は縁側があつて掃き出しになつて居り、遠くは本郷臺が見晴らせるし、近くは今云つた古池を眼の下に見る、町家續きの庇間(ひあはひ)で圍まれた神田から移つては、都會の中とは思へぬ閑静さであつた。

併し先生は明るい光線を好まれなかつた。東の窓はいつも枝簾が下してあつたし、あたりの廣濶としたところに地を卜しながら、画室は採光に極めて不充分であつた。

「忠信」の絵は、画室の隣の八畳との隔ての襖を外してかいて居られた。忠信の忠義、それが先生のこの作の画因には相違ないのだけれど、先生の興味の中心は、脱ぎ棄てた紺糸縅の腹巻にあつたと云つてもよかつたらう。その腹巻は先生愛蔵の品で、先生はかうした武具甲冑のたぐひになみなみならぬ愛着を有つてゐられた。

何一つ道樂らしいもののない先生には、この武具の蒐集が一ばん樂しみであつたらしい。京橋の彌左衛門町にあつた武具を賣る店へは、紺屋町時代には私も使ひに行つたことがある。

松岡映丘君のまだ學生だつた時分、この「忠信」の腹巻のザクリと置いてあるのにひどく惹きつけられて、何度も見に行つたことがあると、これも名作展で、その絵の前に立つての昔ばなしであつた。”

「佐藤忠信参館之図 水野年方 1898年」 武者絵の精紳(こころ) その5:イザ!


※早稲田大学図書館古典籍総合データベースで見つけて文字起こししたもの。残念ながら現在は非公開。
※最近になって「銀砂子」の原稿であると知った。
※図書館送信資料なので内容を確認。ほぼ原稿の通りだが、数カ所のルビの指定は採用されていないし、原稿では略字である「画」などは「畫」に改められている。文字起こしの際のミスもあるかと思うので、引用する際は御注意ください。
※「素地(きぢ)」、「気質(きだて)」、「失敗(しくぢり)」、「木片(こつぱ)」、「徹(とほ)す」、などで清方の言葉遣いを、「私(あたし)」で弟子に話しかける時の年方の自称を知ることができる。
※そんなわけで物言いがつかない限りは公開しておきます。
※鏑木清方は1972年(昭和47年)、93歳没。

福島県における水田の反転耕

※結構大規模に水田の反転耕が行われていることを報じるニュースが続いたのでメモ。

※(伊達市で行われているということは、田中俊一氏も反転耕を積極的に評価する考え方に変わったのだろうか)

放射性物質吸着資材を散布 JA伊達みらい、伊達、桑折、国見の水田で - 東日本大震災|福島民報 2012年4月11日


” 平成24年産米の作付けに向け、伊達、桑折、国見各市町から委託を受けたJA伊達みらいは10日までに、国見町の水田で放射性物質の吸収を抑制する資材の散布を開始した。11日に桑折町、12日に伊達市で始める。
 23年産米で1キロ当たりの放射性物質の検出値が500ベクレル以下の地域の水田約1500ヘクタールが対象。4月末までに作業を終える予定。
 国見町の作業では、組合員らがトラクターを使い資材を散布した。10アール当たりゼオライトとケイ酸カリそれぞれ200キロずつ散布した。散布を終了した水田から順次、反転耕作業を実施する。”


喜久田の水田で除染実験 郡山市、秋以降の本格除染前に - 東日本大震災|福島民報 2012年4月11日

” モデル除染は市の委託を受けたJA郡山市が約1ヘクタールの水田で実施した。作業は反転耕で、トラクターで約30センチから40センチの深さの土を掘り起こした。”


2012年4月10日火曜日

「お人形様」国立歴史民博へ 船引町芦沢地区

「お人形様」国立歴史民博へ 船引町芦沢地区 福島民報:福島県の新聞社:ニュース|福島のニュース 2012/04/10

” 田村市船引町芦沢地区に「魔よけの神」として江戸時代から伝わる市民俗文化財「朴橋(ほおのきばし)のお人形様」の複製が、来春から国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)に展示される。8日は関係者の立ち会いの下、保存会が人形の衣替えをした。
「お人形様」は文化15(1818)年ごろ、地域に悪病が流行した際に「災いや病を寄せ付けないように」との願いを込め、住民らが旧磐城街道沿いの高台に飾ったという。江戸時代には5体あったと伝わるが、現在は朴橋のほか、屋形、堀越の3集落で受け継がれている。”


※記事中の三集落を訪れた方のブログがあった。素晴らしい写真、多数。

オニンギョウサマ/福島県船引町 : 珍寺大道場

2012年3月5日月曜日

「国は対応迅速化図れ」NPO法人放射線安全フォーラム副理事長 田中俊一氏

明日への提言「国は対応迅速化図れ」NPO法人放射線安全フォーラム副理事長 田中俊一氏 - 東日本大震災|福島民報 2012年3月 5日


" −避難区域外の「汚染状況重点調査地域」などでも仮置き場の確保が進まず、除染が難航している。

 「仮置き場の設置については、行政、住民の両方に環境の回復に向けた『覚悟』が必要になってくる。行政が設置場所を判断したことを踏まえ、専門的な知見から技術的な安全性と除染をする上での必要性をしっかり住民に説明しなくてはいけない。伊達市は梁川町の街中にある庁舎の近くに仮置き場を設置し、安全性を説明している。住民としても自分たちの生活の場を守るために必要との理解を深めるべきだ」

 −除染を進める上で県、市町村はどういった役割を果たすべきか。

 「福島の深刻な状況を国にしっかりと説明しないといけない。県はこれまで国に具体的な提案が少なかったように思う。中間貯蔵施設の設置についてもっとリーダーシップを発揮すべきではないか」"