2011年7月31日日曜日

東海道五十三對 藤枝 歌川国芳

Fujieda / Tokaido gojusan-tsui (Fifty-three pairings along the Tokaido Road) / Kuniyoshi
東海道五十三對 藤枝 歌川国芳 1845年頃

"熊谷次郎直実佛門に入て上洛し黒谷の法然上人の弟子となり蓮生法師と改め故郷へかへる道 藤枝の駅に宿せし家にて鳥目壱〆文(いつくわんもん)を上洛まで借用して其質物(しちもつ)に十念を授け故郷へ帰り其後又上洛の砌壱〆文を返し預け置し十念を今又我に玉ハれといふにいと安き事と十念を返す不思議なるハ初め十念を受し時 池に蓮華十茎咲出たるが今返す時念佛一遍に一茎づゝ消失せり此奇特を感じ責て一ぺんハ我に残し玉ハれと願へバ念佛一遍を与へ上洛しける夫より此家を寺となし蓮生寺と号するなり"

2011年7月30日土曜日

百人一首之内 大納言経信 歌川国芳

Poem by Dainagon Tsunenobu, from the series of One Hundred Poems by One Hundred Poets (Hyakunin-issu no uchi) / Kuniyoshi
百人一首之内 大納言経信 歌川国芳 1840~1842年頃

"夕されば門田のいなばおとづれて あしのまろやに秋風ぞ吹く 金葉集秋の部に入る?この詞書に師賢朝臣乃梅津の山里に人々まかりて田家の秋風といふことをよめる歌とあり夕されバは夕暮のさま也芦のまろやとハ芦にて造れる家にてその門田の稲葉ゆへ秋風にそよぐ風情ものかなしくえもいわれぬ趣きを述たるなり"

"六条に住ける頃九月の月の夜にきぬたの音聞こえけれバ から衣擣(う)つこゑきけバ月きよミまだねぬ人を空にしる哉 と詠じけるをりから鬼神詩を吟ずるの図"

"経信の師大納言、八条わたりにすみ給ける頃、九月はかりに、月のあかゝりけるに、なかめしておはしけり。きぬたのをとのほのかにきこえ侍れは、四条大納言の歌、から衣うつ声きけは月きよみまたねぬ人を空にしる哉 と詠し給に、前栽の方に、北斗星前横旅鳫 南楼月下擣寒衣 と云詩を、実におそろしき声して、たからかに詠する物有。誰はかりかく目出き声したらんと覚て、おとろきてみやり給に、長一丈五六尺も侍らんとおほえて、髪のさかさまにおひたるものにて侍り。こはいかに、八幡大菩薩、たすけさせ給へと祈念し給へるに、此もの、なにかはたゝりをなすへきとて、かきけちうせ侍りぬ。さたかに、いかなるものの姿とは、よくも覚すと語給へりけり。朱雀門の鬼なんとにや侍りけん。それこそ其頃さやうのすき物にては侍しか。" 「撰集抄」<巻八第二七 四条大納言・歌>


北斗星前横旅鳫 北斗の星の前に旅雁横たはり
南楼月下擣寒衣 南楼の月の下には寒衣を擣(う)つ

劉元叔「妾薄命」より『和漢朗詠集』346


2011年7月29日金曜日

義士評定之圖 歌川国芳

Gishi hyojo no zu / Kuniyoshi
義士評定之圖 歌川国芳 年代不詳

"一ノ注進 早野勘平 ニノ注進 千崎弥五郎 三ノ注進 速水藤左衛門?"




実際の赤穂藩への急使の状況はwikiによると以下の通り。

元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)巳の刻(午前10時頃) 松之大廊下の刃傷

同日未の刻(午後2時頃) 浅野大学は書状を国家老・大石内蔵助にしたためて、早水藤左衛門と萱野三平を第1の急使として赤穂へ派遣

同日申の下刻(午後5時頃) 一関藩田村家より浅野内匠頭の遺体を引き渡したいから家臣を送るようにという使者が浅野大学に

同日六つ半(午後7時前後) 浅野内匠頭切腹

3月19日(4月26日)卯の刻(日の出前) 第一の急使(早水藤左衛門満尭と萱野三平重実)

同日酉の刻(午後7時頃) 第二の急使(足軽飛脚 刃傷事件発生の事実と藩札処理の指示)

同日戌の刻(午後11時頃) 第三の急使(原惣右衛門元辰と大石瀬左衛門信清 藩主浅野内匠頭切腹の情報)

3月22日(4月29日) 第四報(町飛脚 浅野大学長広お預かりの情報)

3月25日(5月2日) 第五報(町飛脚 江戸浅野家上下屋敷召し上げの情報)

3月27日(5月4日) 赤穂藩の評定(3日間)

3月28日(5月5日) 第六報(赤穂城収城目付及び赤穂代官決定の情報)

4月15日(5月22日) 収城目付荒木政羽と榊原政殊が到着

4月19日(5月26日) 赤穂城開城

※参照サイト「忠臣蔵新聞-赤穂城の明け渡し」